雑念が湧く
川崎ゆきお
人にはそれぞれイメージがある。思い描くところの世界だ。
人の数だけ世界があるわけではないが、同じ世界に対しても、のぞき方が違うため、同じ世界でも違って見える。ただ、全くの異境を見ているわけではない。
感覚的に少しだけ違う。この程度を逸脱すると、それはもう同じ世界を見ていないことになる。
自分が見ている世界は、実は、他の人が見たときも、そう見えるだろうと思うところのものを見ていることが多い。これは普通に見ているということだ。
その普通は、自分が感じたものではなく、他人が感じたものを代用しているのかもしれない。
ここでよく言われるのは、自分が客観的に見ているというのも主観だと言うことだ。ここに標準との大きなずれが生じる。
だが、それほどトラブらないのは、暗黙の了解のようなものがあるためだ。これは状況を読めば、読み違えるようなことは少ない。少し合図しただけで、意志が通ってしまうほど、簡単なこともある。
立石は、その標準的イメージではなく、個人幻想に近いところに、おいしい箇所があるのではないかと常々思っている。それはより、自分に引きつけたイメージと言うことだ。これは、引きつけすぎると、幻想や幻覚になり、独り舞台になる。
他人はその結界に入ってこれなくなる。これを自分の世界を持っている人だと世間では呼んでいるが、実はこれは迷惑者がいると言うことだ。けなしているのだ。
おとなしい幻想家は行動をしない。想像するだけで、その世界を公開しないし、そこへ他人を入れない。また、その流儀で人と接しない。普遍性がないことを知っているからだ。
だが、行動する幻想家は、どぎついことを平気でやる。どちらも、自分の世界を持っていることにかわりはないのだが、他人と関わるかどうかで、その違いが出る。
立石は、おとなしい幻想家なので、その幻想を人に押しつけたり、巻き込んだりはしない。
では何をやっているのかというと、その幻想に少しでも近づけようとしているだけだ。
これはたわいのない話で、思い描いている世界に、少しでも近づければ、それで満足できる。
たとえば、こういう風景の中を歩きたかったというイメージがある。それは想像の世界だが、現実にはあり得ないとは限らない。また、それに近い場所がある。
何らかの偶然で、そういう思っていたところの風景の中を歩けたとき、満足を得られる。
風景が先にあるのではなく、イメージが先にあるのだ。それに近いほど、満足度が高い。
といっても、これは精神的なものなので、世の中から誉めてもらえるようなことでもない。
それで、思い描いたイメージだが、それはどこから発生するのだろうか。
立石によると、それは偶然だという。
イメージのないところにイメージが発生するらしい。何も思わないではなく、何か思う。それだけの違いだ。なぜ、そう思うのかはわからない。それなりの理由があるはずだが、それよりも先に、思いが来る。
立石は、それらを雑念と呼んでいる。メインではないからだ。所得の申告の時、雑収と記入するようなものだ。
雑念なので、断片的で、メインとの繋がりがよく見えない。だから、よけいなことを思うことが、雑念だ。ただ、この雑念こそが、立石を引っ張っていく。
メインのイメージは、他の人にも分かるようなイメージで、話せばわかる。だが、雑念は、ローカルすぎて、立石にしか分からない。だから、この雑念の中にこそ、立石のオリジナルがある。
ただ、雑念は、メインをやらないと、出てこない。
雑念を湧かすには、普通のことを普通にやり続けるのがいいようだ。
了
2012年4月11日