小説 川崎サイト

 

結界破り

川崎ゆきお


 奥田は日常の結界から出られなくなった。抜けられなくなったのだ。
「結界ですか?」
 奥田は若い同僚に相談した。
 同僚は、どうしてそんな相談をこの先輩から受けるのかをいぶかった。それほど親しくはないためだ。それに挨拶程度はするが、ほとんど会話などしていない。それがいきなりプライベートな相談を受けたのだ。しかも「結界」という妙な言い方も気になる。つまり、不審なのだ。
「毎日同じコースを辿っていてね。それが何となく違うのではないかと思うようになった。気が付いたんだ。昔はそうじゃなかった。もっとバリエーションがあった。今は同じ時間に起き、同じようにトートストと牛乳で朝をすませ、自転車でここに来て、働き、そして、帰りはスーパーで買い物をし、夕食を作り、テレビを見て寝る。これがもう数年続いている。これは牢屋ではないか。監獄ではないか。檻なんだ。だから、これは何らかの結界を張られた結果ではないかと思うんだ」
 同僚は、ただただ驚いている。そんなことを語るような人ではないと思っていたからだ。非常に落ち着いており、後輩の面倒見もよく、安定した仕事をし、安定した暮らしぶりをしている。だから、結界だと言われても、ぴんとこない。
「確かにこれは望んでいたことなのだがね。退屈なんだ。刺激がほしい。だが、それを言い出すと危ない。だから今の暮らしぶりを守るのが平和でいいんだ。しかし、最近破りたくなってね。結界の縄紐を取っ払いたい」
 同僚は、この先輩が言っていることは分かるが、唐突なのだ。いきなりそんなことを語り出すことが。それで、今までとは違う、モンスターのように感じてしまった」
「どうかね。君などは若いから、もっと精力的に動いているだろう」
 実は、この同僚も、似たような暮らしぶりをしている。
「部屋でねえ、金魚を飼っているんだ。何匹かいたが、今は一匹だけだ。その一匹がもう何年もいる。狭い水槽の中で、暮らしている。退屈しないのかねえ。それに近いんだ」
 同僚は、一番気にしていることを聞いてみた。
「どうして、僕に、そんな話を」
「それなんだ。どういうことだと思う」
「いえ、分かりません」
「結界を破ったんだ」
「はあ?」
「だから、いつものパターンにはない行動に出たんだ」
「そうですか」
 同僚は奥田が狂った機械のように見えてしまった。
「じゃ、僕、時間なので、今日はこれで」
「ああ、そうかい」
 その翌日はもう奥田は、その同僚には話しかけなくなった。そして、いつもの奥田に戻っていた。
 結界を破れなかったようだ。
 
   了


2012年4月21日

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