小説 川崎サイト

 

走る自転車

川崎ゆきお


「この自転車、動き出すんですよ」
 信号待ちをしていた横の隣の自転車の老人が言う。沢田は自分に言っているのか、独り言なのかが分からない。
 自転車は勝手に動き出さない。坂道なら別だが、こがないと動かない。それに「この自転車」とはどの自転車だろう。沢田は、きっとこの老人が乗っている自転車だと思う。なぜなら、近くに自転車はない。横断歩道の向こう側に人と自転車を確認できるが、「この」ではないだろう。
 勝手に動き出すとなると、それはオートバイではないか。しかし、それは勝手ではない。アクセルを回さないと動き出さない。
「あまり進まないんだけどね。動くんだよ。そして、また同じ所に止まってるんだ。邪魔だねえ。前にいると。そう思わない。あんた」
 やはり老人は沢田に語っているようだ。しかし、前方に邪魔な自転車などいない。
「踏んづけてやるよ。いつも」
 自転車を踏む? ペダルを踏むのではなく、自転車を踏む。これで、何となく沢田は了解できた。
 横断歩道の横に自転車用がある。歩行者と自転車を分けるレーンだが、横断歩道の縞模様のようなものだ。その自転車レーンを示すために自転車の絵が書かれているのだ。リアルな絵ではない。
 老人と沢田の前に、その自転車の絵がある。だから、近くにいる自転車は、これだろう。しかし、絵が動くはずはない。
「これですか」
 と、沢田は、その絵の自転車を指さす。
「そうそう」
「これは動きませんよ。絵ですから」
「それが最近動くようになったんだ。スーと横へ走るんだ」
 つまり、横断歩道の向こう側ではなく、横へ走るらしい。
「タイヤは回転していますか」
 沢田は思わず突っ込んでしまった。
「見ていない。未確認だ」
「今は」
「今日はまだ、動いていない。機嫌が悪いんだろうか」
 絵の自転車が動くかどうかは、自転車の機嫌にかかっているようだ。
 信号が青になり、横断歩道の信号も、やや間を置いて、青になった。
 沢田はスタートした。老人も。
「よし、踏んづけてやれ」
 老人は自転車の絵の上にタイヤを転がせた」
 
 それから数ヶ月経過した。
 もう二度とあの老人の姿を見ることはなかったが、その場所で信号待ちのとき、沢田は決まってあの絵の自転車を見ている。
 動かないことを知りながら。
 
   了

 


2012年5月10日

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