小説 川崎サイト

 

モルグ街の傘

川崎ゆきお


 これは一つの都市伝説だ。しかし、伝説と言うほど大げさなものではない。
 森部は空模様が怪しいと思い、傘を自転車に差し込み、家を出た。
 散歩だ。
 住宅地から、繁華街に入ったところで、二本差しを見た。これは森部独自の言葉で、傘を二本持って移動している人のことを指す。
 その男は、自転車のサドルポールから後輪にかけて一本突っ込み、もう一本を前カゴの上に乗せている。そのため、車幅が広くなり、すり抜けしにくくなる。
 と、いう話ではない。
 不審を感じた森部は、すれ違った後、すぐに方向を変え、男を尾行することにした。随分と暇な人だ。
 雨は降りそうで降らない。だから、誰も傘を差していないが、傘を手にする歩行者は多い。
 二本差しの男は貧乏人が多い地域に入り込んだ。森部の言葉で言えばモルグ街だ。安アパートが並んでいる一帯で、モルグという町名ではない。「モルグ街の殺人」というポーの探偵小説から連想したネーミングだ。こういうのは、ポーの読者でしか分からないだろう。
 森部は、傘の二本差し、正確には、二本持ちは怪しいと思っている。繁華街へ傘をもう一本持って向かうのなら、理解しやすい。駅へ傘を持って迎えに行くとかだ。だが、その逆だ。繁華街から、住宅地へ向かっている。その意味するところは「ちょっと拝借」。傘泥棒なのだ。
 ただ、男が持っていた傘は、二本ともビニール傘で、値打ちのあるものではない。意味があるとすれば、雨が降りかかったとき、ちょいと拝借する程度だ。このときはありがたい。だが、それは泥棒だ。ただ、盗んだ傘を売り飛ばすような時代ではない。
 男はモルグ街に入り込んだ。左右に木造モルタル塗りのアパートが並ぶ。そして、ましな家も長屋のような借家だ。さらに自分で建てたのではないかと思えるような、住居か納屋なのかが分からない、木の箱のような建物もある。
 男はアパート群から小道に入り、さらに右左と、路地を抜け、その突き当たりのあばら屋玄関口に自転車を止めた。
 この家は、庭がある。玄関と庭が一緒の場所にあり、それ以外の面は余地なしで隣家といきなり接しているのだろう。
 庭の周囲は板囲いされ、その上にトタンの屋根が斜めに乗っている。自転車駐輪場にあるような屋根だ。これは一部しか見えない。
 男はすでに母屋に入ったのか、自転車だけが玄関先にある。
 森部は木の塀の隙間から、その庭を見ている。門のようなものはない。だが、勝手に入れないだろう。
 見届けただけで、戻るしかない。
 その位置からは庭の四隅までは見えない。一歩中に入らないと、見渡せない。
 自転車置き場のような塀囲みとも納屋ともとれる、その一部が見えているだけだ。物置なら、何を置いているのを見たい。
 森部は、玄関先自転車の二本差しが消えていることにやっと気づく。前カゴの上も、後輪側の一本も、消えている。
 森部は、自転車で一気に中に乗り込み、さっとターンして戻ることにした。勢いで、道から突っ込んでしまったように見せるため。
 そして、じわっと中に入り込み、死角だった右側の納屋のような囲みの全体を見た。
 そこには、おびただしい数のビニール傘が立てかけられていたのだ。
「犬が靴をくわえて戻ってくる」
 それに近い性癖を、この屋の主にあるのだろう。
 森部はすぐにターンし、モルグ街から走り去った。
 
   了

 


2012年5月11日

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