小説 川崎サイト

 

鶏と蝶々

川崎ゆきお


「鶏が追いかけてくるのですよ」
「養鶏場の方ですか」
「そう見えますか」
 男はビジネススーツで、膝にビジネスバッグを乗せている。
「でも、鶏が追いかけてくるのでしょ。懐かれているのではないかと」
「凶暴な奴です」
「ほう」
「地下鉄から上がった所に待ち伏せしていましてね」
「えーと」
「異常なのは分かります。だから、ここに来たのですよ。先生」
「はい」
 先生はまだ若い。
「普通のサイズじゃないのです。三倍ほどあります。あれは鶏じゃないのかもしれませんが、でもやはりどう見ても鶏です。真っ赤な鶏冠に白いボディー、そして黄色い足。あれは僕の辞書では鶏です。大きさがおかしいだけで」
「あなたが初めてのお客さんなので、お手柔らかにお願いします」
「僕もこんなややこしいイメージを話したくないのですが、先生は専門家でしょ」
「いや、鶏の専門家じゃありません」
「そうじゃなく、こういう話はよく聞くでしょ」
「はい、他で聞いたことがありますし、読んだことがあります。鶏ではなく、相撲取りに追いかけられた話もあります」
「そっちの方が怖いです」
「いえいえ、相撲取りは実在するでしょ。しかしそんなダチョウよりも大きそうな鶏はいないです」
「その鶏、非常に早いのです。ただ、僕がゆっくり歩いているだけなら、ゆっくり追いかけてきます。そして小走りだと鶏もそのスピードで、走れば、同じように走ってきます」
「後ろから付いてくるだけなのですね」
「だけ、って、それだけでも、大変なことですよ」
「危害を加えられましたか」
「もしそうなら、外科へ行ってます」
「じゃ、危害は加えないと」
「はい」
「それは、要するに幻覚なのでしょうねえ」
「だから、ここに来たのですよ。なぜそんなものが見えるのを知りたくて、いや、別に知識欲のために来たわけじゃなく、どうすれば消えるか、教えてください」
「鶏をこれまで見たことはありますか」
「実物ですか」
「そうです」
「ないと思います。でもテレビなんかで見ているし、絵でも見ています」
「ケンタッキーフライドチキンは好きですか」
「大好きです。でもあそこのは高いですよ。僕はもっぱらコンビニで買ってます」
「食べ過ぎたんじゃないですか」
「先生、そんなことで、鶏に追いかけれるのなら、街中鶏だらけですよ」
 先生は、じっと男の顔を見ている。
「どうかしましたか」
「鳥系のお顔ですねえ」
「酉年生まれだし」
「何処でそういうイメージが発生したのかは分かりませんが、あなたは鶏に対して、何らかの罪悪感をお持ちなのかもしれません。決して鶏を食べたから言っているのじゃないですよ。これは、個人の思い込みとか、個人の隠れたる何かが鶏として出てきているのです」
「能書きはいいですから、何とかなりませんか」
「その鶏、危害を加えないのなら、そのままでもいいのではありませんか」
「でも追いかけてくるので、怖いですよ」
「相手にしないことですよ。つつかれたり、爪で引っかけられたりしないのでしょ。まあ、そんなことはできませんがね。幻ですから」
「でも」
「そのうち消えますよ」
「先生」
「どうしました」
「見えてるでしょ。僕の後ろ」
「えっ」
「鶏が後ろにいます」
「えっ」
「いるでしょ。後ろです。後ろ」
「ちょっと、あなたの影になって、真後ろがよく見えません、ちょっと体を傾けてください」
 男は、立ち上がり、鶏がよく見えるように、さっと横へ移動した」
「見えましたか」
「見えません」
「そうですねえ。幻覚なんだから、先生には見えない」
「しかし、先生、なぜ鶏なんでしょうねえ」
「さあ、それはよく分かりませんが、何かの象徴かと思われます」
「象徴ねえ。思い当たらないのですがねえ」
「まあ、それほど心配しなくてもいいですよ。鶏が見える程度なら」
「どういうことですか。無責任な」
「私なんて、蝶々がずっと飛んでいるのですよ」
「先生、それ、目医者へ行かなければ」
「同じです。幻覚です。もう目障りで目障りで仕方がないけど、まあ今は気にならなくなりましたよ。すると、蝶々の数が減り、そのうち、消えていきました。疲れたときなど、たまに飛んでいますがね。まあ、それはそんなものです」
「はあ、何となく、安堵しました」
「はい。お大事に」
「薬は」
「いらないでしょ。そのうち消えますから」
「はい、わかりました」
 客は帰った。
 嘘も薬だ。
 
   了


2012年6月8日

小説 川崎サイト