あるバーチャル
川崎ゆきお
昔の人ほどリアルとバーチャルの区別が曖昧で、それらは同居していたのではないだろうか。区別しなかったという意見を岩見先生は考えている。
「それは迷信なんかを信じていた時代ですね。先生」
「迷信、儀式、形式、そう言ったものが含まれる。それらは今のバーチャル世界が出来てから何となく分かってきたことなんだ」
「バーチャル世界といいますと」
「基本的な質問だね。それはネットのオンラインゲームの世界を想像してもらえればいい」
「バーチャル都市で買い物をするというのもありますねえ」
「いずれも誰かが仕掛けを作ったのだが、それを作った人が、そこの人ではない」
「そこの人とは?」
「ゲーム内の人だよ」
「ゲーム内の人はバーチャルですね」
「まあ、神社やお寺は宮大工が作る。普通の大工でもいい。これと信仰とはそれほど関係はない。技術の問題だからね」
「大阪城を建てたのは誰だ、って話がよくありましたね。クイズで。答えは大工さん」
「まあ、プロの大工さんだけではないだろうが」
「では、大阪城を建てたのは設計した人ではどうですか」
「それに近いねえ。バーチャル世界も、設計図を書いた人だ。ただ、勝手に書いたわけじゃない。いろいろと要望を入れながら書いた。オーナーがいるはずだ」
「ああ、そうなると、設計を命じた人が、建てたことになりますねえ」
「しかし、これはバーチャルではない。その城を建てた人はその城の近くにいたわけだから」
「城はバーチャルではないのですね」
「だが、寺社になるとバーチャルだ」
「はい」
この「はい」は曖昧な「はい」で何となく声で返した程度の意味だ。
「主がリアルではないからな」
「そうですねえ、城主はリアルですよね」
「神や仏を私は否定しているわけではない。ただ、リアルな存在ではないため、それをここでは今風に言えばバーチャルだということだ」
「バチが当たりませんか」
「信仰の自由というのがある。何も信仰しないのも自由の内だ」
「要するに先生は信仰とはバーチャルなことだと言いたいわけですね」
「ただ、道具としての実用性があれば、それはリアルな役目を果たす」
「道具?」
「ツールだよ」
「はあ」
この「はあ」は納得に至らないときの「はあ」だ。
「仏教とは、仏云々ではなく、信仰でもなく、便利なシステムだったからだ。そして構造化されておる。お経というマニュアルもある。この仕掛けは利用できる。OSのようなものだ」
「それはバーチャルな話とは、別の方向ですねえ」
「今は、現実、つまりリアルと、バーチャルを分けて考えておる。従って、分かりやすい。だが、バーチャルとして認識されておらん出来事も、まだまだ多い」
「神話のようなものですか」
「そうだ。現代の神話というやつだ。決して神様が出てくる話ではないがな。いくら分離させても、バーチャルは発生する」
「それが結論ですね」
「だから、その過程を語るのが楽しいのだ。結論だけでは味気ないだろう」
「はい」
「仮説というのも、バーチャルだ。本当にそうなのかはまだ分からない。だから仮説だ。その仮説に向かっておる人間は、バーチャルの中にいるようなものだ」
「ああ、そこで人間の生き方にまで関わってくるのですね」
「うむ、臭いがな」
「はい」
了
2012年6月29日