小説 川崎サイト

 

幽霊の足

川崎ゆきお


 どっこいしょと、岩田老人が席に着く。
 駅の二階にある喫茶店だ。
「息が荒いようですが、大丈夫ですか」
 先に座り、写真雑誌を見ていた舟橋が聞く。
「ああ、大丈夫」
 岩田老人は出てきた紙おしぼりで額の汗を拭う。
「本当に大丈夫ですか。お体が悪いのでは」
「最近登っておるのです」
「山にですか」
「階段です」
「階段トレーニングですかな」
「そんな大げさなものではない。エスカレーターではなく階段を登ってきたのです。その方が遠回りですが、運動になります」
 駅舎の入り口から二階へ上がるとき、近いのはエスカレーターの方で、入り口すぐのところにある。階段は奥まった場所だ。それはわずかな距離だが、確かに少しは歩数が増える。さらに階段を上るわけだから、よけいに体力を使う。
「三日前から始めましてね。今日は体調が悪いので、息が上がりました」
「無理なさらない方が」
「そうなんだが、家から駅までは自転車でしょ。これはまあ、車椅子のようなもので、ほとんど体力を使わないんですよ。だから、ちっとも体を使わない。まあ、楽だけどね。それはいいんだが、この前お寺参りに行ったとき、階段を登れなくてねえ。足が上がらない。歩いていなかったからですよ。これはいけないと思い、三日ほど前から歩き出した。しかし家から駅まではさすがに遠い。会社へ行ってた頃は歩いてましたがね。二十分ほどです。今歩くと三十分はかかる。これは楽しみでは歩けない。散歩にしては見慣れた場所しか通らないので、面白くない。それに散歩は適当に歩くのがいいんだよ。目的地が決まっておると、義務になる。別に果たさなければならん義務ではないが、道を逸れると駅に到着せん。それでは、自分が決めたことを果たせなかったことになる」
「元気なので安心しました。岩田さん」
「だから、体調が悪いと言っておるだろ」
「それだけ話せれば、十分ですよ」
「その問題じゃない。足だよ足。歩けないと遊びにも出ていけん。階段のない寺しか行けなくなる。それに仲間と一緒のとき、遅れるのは嫌だ。それで、普段から、少しでも歩くことにした。ただ、この場合積極的にスポーツをするつもりはない。ほら、毎朝、歩いている連中がいるでしょ。ああはなりたくない。もっと生活の流れの中で、それをやらないと。それで、エスカレーターではなく階段を利用することにしたんだ。これを毎日続ければ、寺の階段など、簡単に征服できる」
「私は、毎朝、歩いている組です」
「それでもいい。それでも。あそこに加われるのならね」
「幽霊は足がないので、楽でしょうねえ。登れない階段もないし」
「えっ」
 意外な問いかけに岩田は驚く。この友人がそんな洒落たことを言うのは珍しいからだ」
「何かあったのかね」
「いえ、別に」
 そして、舟橋は写真雑誌を岩谷見せた。
「心霊写真です」
「ほう」
「足がないでしょ」
「ああ」
「これは楽ですよ。歩かなくてもいい」
「しかし、これは合成でしょ」
「でしょうね」
「しかし」
「何ですか岩田さん」
「当然の話だが、足がないので楽だが、この世の人ではなくなったのではレベルが違う」
「そうですねえ。比べてはいけないレベルです」
「そうだ」
 岩田老人はじっと心霊写真を見ている。
 かなり長い。
「どうかしましたか、岩田さん」
「合成方法を探しておる。これは単純な二重写しだが、幽霊から足を消すにはレイヤーを何十枚も使わんとだめで、手間がかかる。このとけ込み具合は簡単には出せない」
「そうなんですか」
「よし」
「どうかしましたか、岩田さん」
「わしも作ってみたくなった」
「よかったですねえ。やることが出来て」
「うんうん」
 
   了


2012年7月2日

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