蕎麦のツユ
川崎ゆきお
「どうだった」
営業課長が佐山に聞く。
「分かりません」
「取れそうかね。取れると有り難い、当然君の手柄にもなるが、私の手柄にもなる」
「僕もうまくいくことを今願っているところです」
「返事は来週かね」
「末です」
「じゃ、金曜か」
「はい」
「どうした」
「気がかりがあるんです。価格です」
「あ、そう」
課長はあまりそれに触れたくないようだ。
「先方の反応が、どうもそこにあるようで」
「どんな」
「はい。途中から妙な話を始めました」
「うん」
「ざる蕎麦を作ったそうです」
「あの社長は蕎麦が趣味だったかい」
「作るんじゃなく、食べるときの話です」
「どんな」
「蕎麦のツユがあるでしょ」
「ツユ?」
「出汁です。つける出汁です」
「それが何か」
「だから、雑談なんですが、急に言い出したんです」
「ほう」
「ざる蕎麦を、ザルというか、籠のような物に入れて、それで、ツユを小皿に入れて、それで食べたらしいのです」
「話が見えないよ、佐山君」
「はい、僕も見えませんでした」
「続けて」
「それで美味しく食べそうです」
「それだけかい」
「はい」
「会話はそれで終わりかね」
「話としては、それで終わりなんですが、これって、雑談でしょ。そして、その後も話し出したことがあるのですが、それは雑談の雑談なんです。実はそちらが気になっているのです」
「蕎麦を美味しくいただいた。はい。その後、何を話したの?」
「小皿に出汁が残ったのです」
「ああ」
「それを捨てまいか、とっておきべきかで、この社長、迷ったとか。そして君ならどうするって、僕に聞くのです」
「君は、どう答えたんだ」
「そのままです」
「何が」
「だから、正直に自分のことを言いました」
「どうする。君なら」
「はい、捨てます」
「普通はね」
「社長は残ったツユを冷蔵庫に入れたらしいのです」
「社長さん、そんなことまでするの。奥さんがいるだろう」
「今、検査入院で、留守のようです」
「それが何」
「ここに意味があるんです」
「奥さんの入院がかね」
「奥さんは関係ないと思います。出汁です」
「冷蔵庫に入れたことが、どんな意味があるんだ」
「メッセージですよ」
「ん」
「けちりたいってことです」
「けちる」
「安い方を選ぶんじゃないでしょうか」
「他の業者より、うちは高いからねえ」
「安い業者に決めるんじゃないかと」
「それで」
「価格、何とかなりませんか」
「下げろと要求してきたわけじゃないだろ」
「でも、ニュアンスが」
「つまり、勝負所は価格なんです」
「でもねえ、価格は下げられないよ。ぎりぎりだよ。赤字になる。それなら、受けてもらわなくてもいい」
「つまり、値段を下げられないのは、人件費がかかっているからでしょ」
「うん、まあ、そうだ。君を雇っているんだからね。おかげで、私は楽だけど」
「それはどの業者もそうでしょ」
「いや、人員を減らしている会社もある」
「じゃ、そちらに持って行かれますよ」
「しかし、ざる蕎麦のツユと価格とは関係がないだろ」
「じゃ、どうして、そんな話をわざわざしたのですか」
「うーん」
「じゃ、もう諦めましょう」
「体よく断りのメッセージを受けたってことか」
「はい」
金曜日、電話がかかってきた。
「課長」
「どうだった」
「受注成功です」
「やったじゃないか。あの価格でよかったんだ。取り越し苦労だったんだよ」
「はい」
「どうした」
「電話で、妙なことを、またあの社長、言い出したんです」
「何だい」
「ソーメンと細いうどんはどう違うのか、そして、出汁は何を使えばいいのか……って」
「何だいそれ」
「どういうメッセージが込められているのでしょうか」
「そのままじゃないのか」
「はあ」
「深読みのしすぎだよ。佐山君」
「あ、はい」
了
2012年7月6日