小説 川崎サイト

 

席を立つ

川崎ゆきお


「喫茶店とトイレの話でもいいですか」
「はい、どうぞ」
「ターミナルの喫茶店で、店員の顔は知っているし、店員も私の顔を知っています」
「店員の話ですか」
「違います」
「すみません。早く聞きすぎました」
「続けます」
「はい、どうぞ」
「広い喫茶店で、ガラス張りなので、外からもよく見えます。人は始終通っています。そして、その店には十人ほどの客がいます。広いので、ポツンポツンと間隔を置いて座っています」
 話し手は黙ってしまった。
「どうかしましたか」
「たまに突っ込んでください。講談じゃないのですから」
「講談とはまた古い。聞かれたことはありますか」
「何かの余興の席で、若手講談師がやっていたのを、生で聞いたことがあります。それともの凄く早い朝、テレビやラジオでたまに講談をやってますよ。浪曲も」
 話し手はまた黙った。
「どうかしましたか」
「私は講談の話をしたくてやっているのではないのです。止めてください」
「ああ、どうぞ」
「じゃ、先へ行きます」
「はい」
「そういう、はいとか、それで、とかを入れてくれれば、話しやすいです」
「あ、はい」
「それで、十人ほどの客と私の関係は何もありません。すべて初めて見る顔です」
「はい、それじゃ、駅で電車を待っているときの客と変わらないわけですね」
「そうです」
「続けてください」
「いい、促しです」
「あ、はい」
「私はタブレットでネットを見ながら、家計簿を付けていました。これは同時には出来ません。ネットと家計簿を交互に見ていたということです。つまり、テーブルの上には買ったばかりのタブレットがぺたりと置かれています。そして、ここからトイレへと移行するのですが」
「話がですか」
「話もそうですが、行動としてもトイレに行くことになるのです。これは先に言っておきます。理由は簡単です。トイレに行かないで、喫茶店に入ったので、先に用を足していなかったのです。私は膀胱が小さいのかもしれません。それとエアコンが効いていて、冷えたのかもしれません」
「はい」
「そして、テーブルの上にはタブレットや煙草、ライターは結構高かったやつです。それに気圧も測れる時計。さらに椅子に鞄を置いています。この鞄には一ヶ月分の小遣いが入っています。また。カード類や、証明書や、キーのスペアだとか、なくしてはいけないものを持ち歩いているのです。何かのときに必要ですからね」
「はい」
「そして、鞄のファスナーは開いたまま。中から大きな財布が顔をのぞかせています。そして……」
「そして?」
「トイレに立ったのです」
「物騒ですねえ」
「物騒です。ターミナルにあるその喫茶店にはトイレがないのです。だから、一度出て駅のトイレに入る必要があります。幸い改札内ではなく、改札の外にもあるのです。まあ、駅ビルそのものがショッピングセンターなので、トイレは必要でしょう。しかし、決まって奥まったところにある。入り口は一等地ですからね。そこに作るわけがない。つまり……」
「つまり?」
「トイレ往復に時間がかかるということです。その間、タブレットや時計やライター、そして鞄はノーガードです」
「先に聞いていいですか」
「はい」
「無事でしたか」
「無事でした。でもそれを言うと、もう話す気がしなくなります」
「いえ、もう十分お話は伺いましたので」
「最後に、ああ無事でよかったという話なんですよ」
「それより、どうして、そんな危険なことをしたのですか」
「置き引きや、泥棒がたとえ店にいたとしても、手が出せないと思います。客が見てますからね。それに……」
「それに……」
「そういう心配をしているときは、何ともないことが多いんです」
「そんなものですか」
「盗られてはまずい鞄でも、手ぶらで出ることがあります。何か肩が寂しいなあ、と気付き、ああ、鞄を忘れてきたと」
「ああ、なるほど」
「盗られるときは、意識していないときに盗られたり、なくしたりします。なくすぞ、なくすぞ、盗られるぞ、盗られるぞと意識しているときは、意外と無事なんです」
「それは物理的に有効ななんでしょうか」
「いや、呪いのようなものです。だから、心配すればするほど、そうならないことが多々あります」
「為になったような、ならないようなお話ですねえ」
「はい、微妙です」
 
   了


2012年7月7日

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