好奇心
川崎ゆきお
好奇心は謎と繋がっている。謎があるから好奇心を起こす。分からないため、好奇心を起こすと言ってもいいが、これは知的な本能かもしれない。
永遠の謎がある。それは誰にも解明できない場合、それを満たすための仕掛けを作る。それが適当に作られた、もっともらしい仕掛けでも。
知的本能と好奇心は動物にもある。それは種の継続のため、より有利なものを探しているためだろうか。ただ、最初から探す気でやっているのではなく、自動的に好奇心を起こすのだろう。センサーが感知し、自動的に調べるためだ。
それを人間の生活、暮らし、仕事上で、どんな感じで起こっているのかを吉田は考えていた。好奇心について好奇心を起こしているのだ。これは文章のための文章、絵のための絵、写真のための写真と同じような感じだ。そのため純度は高いが、実用性はほとんどない。
ただ、好奇心を満たすような仕掛けは、実用性がある。ただ、この場合の実用性は、心情とか信仰とか、そっちの精神的なもので、抽象的なものだ。
手続き的にはこれは検証で、実際的なマニュアルではない。
日常の中で好奇心を起こすには、欲と絡むことが多いが、それはからくりが分かっているので、それほど謎ではない。欲と絡む好奇心はレベルが低い。しかし、実用性は高い。ただ、その謎を解明できることが分かっていると、知ったからといって、大したことはないと思うことがあり、そのため、興味が失せることがある。
意外な結果が出て、謎が謎を呼ぶと盛り上がる。平坦なものより、複雑で立体的なものの方が、何が飛び出してくるかが分からないので、それを見るのが楽しい。
好奇心を満たすというのは、楽しめるのかもしれない。確かに満たされると気持ちがいい。だが、その気持ちの後にくるものまで予測すると、結構むなしい。そのため、何でもかんでも好奇心を満たすために、好奇心を動かしているわけではない。長く続く謎の方がいいのだ。
そして、その謎に対する様々な説があるほど謎を楽しめる。
ただ、好奇心を満たすと楽しいとなると、それは楽しみのためにやっていることになり、これは娯楽になる。それで、商売をやっている人もいるだろう。
だが、吉田説は違っている。吉田はゴシップ的な好奇心ではなく、生存のためのアンテナだと解釈しているのだ。生存することは楽しくもあり、苦しくもある。だから、楽しさだけを追う行為とは違う。
知的好奇心は知的満足で終わる。生存のための好奇心は、生きるために必要なセンサーだ。しかし、吉田はここで止まってしまう。動物なら、それでもいいが、人間社会の生きるすべは、動物とは違っているためだ。
「あの人はどうして稼いでいるのだろう」
という謎がある。これは好奇心を起こさせるが、答えを聞けば、簡単な話だったりする。すぐに終わってしまう好奇心だ。
そして、吉田の好奇心説は、動物のそれと違い、楽しむことに変化したということだ。
ただ、真剣な場所で、楽しみではない好奇心センサーの使い方があるように思っている。
それは動物的カンというやつだ。
そういった展開を、吉田もやはり楽しんでいるのだ。だから、吉田もやはり好奇心のための好奇心からは出られない。
了
2012年7月13日