小説 川崎サイト

 

斜光

川崎ゆきお


 大相撲名古屋場所のテレビ中継が終わったので、近藤は外に出ることにした。この季節まだ明るい。
 部屋の中でテレビばかり見ていると、目が疲れる。それで外に出て、遠方を見るようにしていた。目的はただそれだけだ。
 さすがに日も弱まり、炎天下ではなくなっている。斜光は文字通り横から差す太陽光だ。遠くだと、結構遠くの建物が見える。逆方法はさすがに逆光となり、フラットだ。
 差し手というのがある。相撲の手だ。将棋にもある。だから、日差しにもあるのだ。
 近藤は順光の、つまり、日が差す方へ向かって歩いている。東側だ。
 遠くにあるビルの側面に暖かい光が当たっている。こういうのを見ていると、非常に和む。これは宗教になるのではないかと、ふと思う。
 黄昏時、日が沈みかかる前、確かに別のベクトルが来るようだ。
 遠くにある山の頂に、鏡石のような反射しやすい石を置き、ありがたい山として崇めることもできる。山頂の岩が光っているのだ。
 これは、通信装置として使えるかもしれない。実際、本物の鏡で、光通信をしていたのではないかと思えるが、夕方や朝方に限られるだろう。斜光でないと、この差し手は効果的に機能しない。
 そんなことを思いながら、さっきまで見ていた大相撲を思い出す。対戦内容や差し手ではなく、ポジションだ。
 あまり光が差さない地位がある。優勝争いに残ったことはなく、目立った成績もあげていない力士だ。つまり、注目されにくい力士について、考えたのだ。
 テレビ中継されているので、名前や顔や体型はさらされている。ずっと見ていると、顔と名前が一致する。だから、十両は別として、幕の内力士なら、誰が誰だかは分かる。だから、知った力士だ。しかし、注目されないと、自分で見出さないといけない。テレビ中継での解説でもあまり触れられていない力士。
 成績がいいと注目される。勝ち越せば、インタビューされるが、大きなニュースではない。注目度はそれほどない。だが、さらに大勝ちすれば、優勝争いに加わることで、注目される。
 近藤は、そういう力士よりも、ほとんど存在感はないのだが、いつもそこにいるような見慣れた力士を注目している。
 よく見かけるが存在感がない……これがポイントだ。
 それほど大負けせず、大勝ちしない。順位でいえば前頭の中程をうろうろしている力士。
 よく考えると、それは近藤が会社にいたころの地位だ。
 定年前は黄昏課長と呼ばれていた。横からの差し手だ。西日なのだ。夕日なのだ。
 そのころは、あまりありがたいニックネームとは思っていなかったが、まんざらでもなかったのだろう。そのため平穏無事だった。
 さて、どこまで歩いただろうか。いつもの小学校前で近藤は引き返すことにした。もう美味しい斜光は弱まり、暗くなるだけだ。引き返すタイミングとしてはちょうどいい。家に戻る直前まで、まだ明るいからだ。
 
   了
   

 


2012年7月19日

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