小説 川崎サイト

 

朦朧

川崎ゆきお


 炎天下、頭がボーとし、幻覚を見てしまう。というようなことはない。意識は確かに朦朧とするだろうが、そうなる寸前で気合いを入れるのが普通だろう。これで朦朧方面ではなく、覚醒方面にスイッチが入り、意識は逆にしっかりする。本当に朦朧としてくれば、それは熱中症で、幻覚鑑賞などというような呑気な話ではなくなる。寝不足の時、逆に頭が冴え渡り、普段見えないものが見えてしまうことがある。頭が鋭くなるのだ。
 高田はのんびりとした幻覚を見たいと思っているので、炎天下を歩いているときは気合いを入れないようにしている。すると、風景にフィルターがかかる。このフィルターは表面的なイメージ画ではなく、記憶の彼方にあるような、古い映像を見ているような効果がある。風景が遠ざかるのだ。手の届くところにあった柵などが届かなくなるのではなく、全体が遠のく。これは一体感がやや緩んでいるとみていい。そこにいるのだが、一体感がない。つまり、自分と風景との距離感が遠ざかるのだ。もっと言えば同じ空間内にいないような。
 そして、最初は目の前の風景が、遠のくように見えていたのだが、徐々に違うものが見えてくる。異界が見えるのではなく、他の風景を思い出し、その絵が出てくるのだ。
 眠る前、夢ではなく、いろいろな光景が目に映ることがある。あれが、見え始めるのだ。
 布団の中では目をつぶっている。だから、真っ暗なはずだ。しかし、思い出などを上映させることは出来る。ただ、この操作は難しい。勝手に出てくるからだ。ただ、それは目で見ていないことは知っている。
 炎天下、高田はそれがたまに起こる。
 この場合、現実の風景も当然ながら見えている。そして頭の中の思い出のフィルムも見えている。二重写しのようなものだが、重なることはない。切り替えているのだ。
 幽霊が見えるというのは、この二重写しが起こってしまったときの現象ではないかと、思ったりする。つまり、幽霊は立ち絵なのだ。頭の中でのキャラ絵と現実の風景とが重なっている。
 だが、普通の精神状態のときは、そんな器用な合成は出来ない。しかし炎天下で朦朧としたときなど、現実の風景が緩む。そのとき偶然、そのモードに入り込む可能性がある。ただ、二重写しなのか、残滓なのかは分からない。
 残像の場合、例えば明るい光を見たあと、薄暗い場所を見ると、その明るい映像が残っている。テレビを見ていて、スパッと切ったとき、まだ何か見えているのと同じだ。
 高田はその日も炎天下を歩いていたが、そのことを意識していると、なかなか絵が切り替わらなかった。
 ただ暑苦しいだけの夏の風景が続いていた。
 
   了


2012年7月27日

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