妖しい人
川崎ゆきお
妖しいことを考えている人が、結局一番妖しい人ではないかと思われる。それは妖しさが分かる人のためだ。
ある現象が起こったとき、それを合理的に捉える人の方が圧倒的に多いだろう。だが、それが妙な偶然の重なりや、あり得ないような偶然の場合、合理的には考えにくい。だからといって妖しい発想で理解しようとは思わない。その偶然にこだわらないで、それ以上神秘の門を叩かないのだ。
だが、妖しい人は、小さなことまで神秘的に考えてしまう。そこに物語を挿入するのだ。
ただ、昔はその嘘のような物語でも、何とか落とし前が付いた。不思議とそれで納得できたのだろう。それ以上のことは人知を越えた領分で、人間の頭では理解できなくて当然なのだと。
最初から妖しい発想を持ち込む人は、どういう人だろうか。それは感受性の高い人とみるべきだろうか。それなら褒め言葉だ。
ただ、この感受性というのは、よく分からない情報だ。人により感受性が違うし。また、感じというのは曖昧だ。
つまり、錯覚かもしれない。
妖しいものに頼る人は、他に寄るべきすべがないのだろうか。だが、本人にとって、それはきっちりとした世界観があり、その中でのエピソードの一つになる。それなりに論理性があるのだ。だが、この論理性は本人だけが納得できる論理でかまわないので、非常に曖昧で、何とでもなる。
昔はそういった迷信を言う人が結構いたはずだが、さすがに今の時代になると、影を潜めている。公然と言いにくくなったからだ。
言うとすれば、冗談のように言うしかない。
世の中には論理的には埋まらないような不合理のようなものがあり、それを何とか埋めるためのメイキングが必要だ。
さて、妖しい人だが、これを神秘家と呼ぶことで、ほとんど使われていない道具のように捨て去ることも出来ない。なぜなら、妖しくない人でも、何らかの妖しさを秘めている。
ただ、妖しさだけの論理では、何ともならないので、あまり使っていないだけだ。
了
2012年8月12日