小説 川崎サイト

 

違って見える

川崎ゆきお


 いつも自転車から見ている線路沿いの道、渡っている踏切、そこから見えている駅のホーム。それらを電車から見ると、違った風景のように見える。物が変化したわけではない。同じものだ。違いは何処にあるのだろうか。
 先ず高さが違う。自転車での目の高さと電車とでは、電車の方が高い。だから、やや高見から見ている。これだけでも少しは違うが、すべてではない。まだある。
 その一つはスピードだ。早いのでゆっくり見てられないのだ。ただ、既知の家並みなら、それは補完できる。
 もうひとつの違いは空間性だ。電車は箱の中に入っている。窓は閉まり、同じ空気を吸っていない。風や陽射しなども、同じではない。車内の空気は、そのままで移動している。だが、自転車だと、その建物の前の空気、板塀前の空気、店屋前の空気はどれも違う。それほど感じていないが匂いも加わっているのだろう。
 電車内から見ると、それらは省略される。別空間の箱のまま移動する。
 高橋は久しぶりに電車に乗り、それに気付いた。これは分かっていることであり、当たり前のことなので、深く考えることではない。また、電車に乗り、車窓風景を見ることも希だ。居眠りしたり、目的地でのことを考えたりで、呑気に風景など見ていない。また、本を読んだり、吊り広告を見たりする。そこでもう最初から隔離された、外とは違うところにいることを知っているからだ。わざわざ比べてみようとは思わない。
 だが、それが来たのは、先ほどまで自転車で走っていた場所を、電車内から見ていたためだ。さっきまで、線路沿いの道を走っていたのだ。だから、記憶が新しい。同じものをもう一度見たのだが、見え方が違う。だから、気になったのだ。
 しかしこれは自転車と徒歩でも言える。もし這いつくばって移動していれば、また違った風景になるだろう。より精密な。
 だから、いつも何処から見ているのかで、風景が違うのだ。同じ風景でも見え方が少し違う。それは、距離感や角度、見ている時間にも関係する。
 さらに、長い年月同じ場所の風景をずっと見続けていれば、初めて見る風景よりも、意味合いを込めて見ているはずだ。
 当然高橋は目的地までの駅までの車窓風景は、車窓風景のままで、それ以外の視点からは見ていない場所も多い。それでも見知った場所なのだ。リアルを見ていることには変わりはないのだから。
 これは年齢や地位や職種などを絡めると、何処から見ているのかで物事のとらえ方も違ってくるはずだ。
 まあ、それは当たり前のことなどで、語ることでもないのだが。
 
   了
 


2012年8月30日

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