小説 川崎サイト

 

旧館

川崎ゆきお


 出そうで出ない。それは残尿感に近い。だが、これは膀胱炎の話ではない。
 古い旅館、しかも木造の旧館。その廊下。もうこれは、出る雰囲気は整っている。そのため、出ないと逆におかしい。出ないと納得できない。出ないとストレスだ。
 旧館の三階は実は上の道沿いでは一階になる。
 村上は宿の人に教えられた。つまり、山側へ行くときの近道なのだ。だから、新館の表玄関から行くより、旧館の三階から行った方が早いと。
 それは夕食前のまだ陽のある時間帯だった。早く宿に着きすぎたので、夕食まで間がある。それで、山の方を探索する気になったのだ。
 だが、日が出ていても、その旧館の廊下は薄暗い。ガラス戸から光は入ってきているのだが、鬱蒼と茂る樹木が光を遮っている。旅館の庭なのだが、山の斜面だ。これらの樹木の枝や葉が、風で揺れ、ガラス戸や障子に影絵のような模様を映し出している。しかも静止画ではなく、動画で。
 これだけでも怪しいのが、廊下がきしむ。自然に出来た鶯張りだが、その音を得るために作られたものではなく、傷みによるきしみ音なのだ。そのため、その音が低い悲鳴のように聞こえたりする。
 女のうめき声、すすり声のようにも聞こえる。そして、ガラス戸に隙間があるためか、木の葉の揺れる音まで入ってくるため、非常に立体的な音響効果となっている。
 さらに客室は全て閉まっている。使われていないのだ。こういう部屋は開けないで、そのまま放置していると、何かが籠もりやすい。実際には何もないのだが、そう思わせるような雰囲気が籠もるのだ。
 村上は、その廊下を通り過ぎ、足の裏で磨き抜かれたような階段を上がり、二階へ出た。あとは踊り場から三階へ上がるだけなので、もう長い廊下を歩く必要はない。
 だが、怖い廊下は、歩いている方がまだ、気が楽だ。すーと延びた廊下を見ている方が逆に怖い。二階の廊下は近道とは関係がない。旧館の二階と新館とは繋がっていない。だから、行き止まりだ。それだけに、人がほとんど歩いていない廊下ということになる。宿の人がたまに見に来る程度だろう。しかし、その用事がなければ、ずっと無人のまま。これが怖い。
 ただ、村上は怖い怖いと思っているときは、決して怖いものとは遭遇しないことを知っている。怖いものはとんでもないところで、予想できない状態で来るのだ。だから、今は予想しているので、きっと出ないだろう。それを信じるしかない。
 三階へ上がると狭いながらロビーがある。古びた長椅子とテーブル。受付の窓。しかし、これは使われていない。そして大きな玄関口があり、扉のない空の下駄箱が並んでいる。
 玄関戸は、幅の広いガラス戸で、その手前に白いカーテンが掛かっている。この宿のもう一つの出入り口なのだ。
 カーテンは半開きで、外はよく見える。ガラス戸を滑らせると、開いた。レールに砂でも入っているのか、いやな音がしたが。
 宿の人によると、開け放しにしないで、出ればいいとか。
 村上は、秘密の通路を通って、公道へ出たわけだ。これが結構痛快だった。そして怖さはどこかへ飛んでいった。
 そして、山の方へ向かう道を散歩し、戻ってくるのだが、そのときはもう夕日も落ち、やや薄暗い。
 来たときと同じ階段や廊下を通るのかと思うと、また怖さがやってきた。
 村上は旧館の玄関戸を開けた。
 
   了

 


2012年9月29日

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