小説 川崎サイト

気運

川崎ゆきお


 歩道のベンチで、ややこしそうな老人が座っている。頭に腹巻きのようなものを被っている。先は開いているので、やはり筒だ。
 合田は自転車を止めた。怪老人に興味が行ったからではない。走りすぎて疲れたのだ。
 ベンチは複数ある。そのため、老人の横に座らなくてもかまわない。それに、よほど人の多い場所でも、知らない人の真横には座らないだろう。これは人が持つ自然な距離感で、電車なら座るが、広くて人がほとんどいない場所では、物理距離以上に近い。
 合田は怪老人隣りにあるベンチに一人で座る。ベンチは無理をすれば三人は座れる。
「あの雲は良くない」
 早速だ。
 怪老人は距離感を無視してきた。独り言ではない。明らかに合田に聞こえるように声を発している。
「あなたも気をつけよ」
 合田は走り疲れたので、ガードが面倒になり、受け皿となった。衛星放送を受ける中華鍋のように、その顔を怪老人に向けた。
「あの黒い雲が動いておる。後ろの白い雲はそのままだ。それ故黒い雲は風で動いておる。黒い雲が自主的に動いておるわけではない。高度が違う。だから高い位置には風がないのだろう」
 お天気おじさんでも、これほど詳しく話さないだろう。
「あなたも気をつけなさい。悪いことが起こる」
「それは雲占いですか」
「天文占いじゃ。天占いと言ってもいい。星より雲の方が動きが敏感で、多種多様。それだけ詳細じゃ」
「何に気をつけるのですか」
「気圧の変化が起こっておる。空気が入れ替わる。あの黒い雲の動きが、気流を表しておる。空気の流れ、これ気の流れと称する」
 香具師なら、何か売りつけそうだが、怪老人は手ぶらだ。合田は頼んだわけではない。だから見料を払う必要はないだろう。
「空気を読むとは、気を読むこと」
「はい」
 無料のはずなので、合田は拝聴することにした。
「気圧、空模様による精神的な意味合い。影響。そう言ったものが影響を人は意外と受けるもの。だから、こういう日は商談を避けるべし。また、頼み事を避けるべし。なぜなら、こちらも相手も気が塞いでおる。ちょうど疲労しているようにな。まあ、体調が悪い人と同じ。このようなときに、会議は禁物。決まることも決まらぬ。機嫌が悪くなる」
「それはお天気と、人間の精神生活との関わりを言われているのですか」
「まっ、そういうこと」
「じゃ、占う必要はないですね」
「あの黒雲が流れ、上の白い雲も、そのうち流れれば、青い空が顔を見せる。そのとき、商談を始めなさい。また、少しでも青い空が見えてきた状態でもよろしい。気が良くなってくるからのう。ただし、周囲の雲も見なされ、近くに雲が出てきていないかを見なされ。雲は流れてくるものだけではなく、今まさに湧き出すこともある。これは危険じゃ。この湧き出す雲が一番危険での。不安定なのだ。天がな。当然地にも影響を与える。それは気温や湿気だけの話ではない。精神に与える。犬なら鼻が乾いた状態となって現れ、猫ならしょげているような顔になる。顔が小さくなっているので、それで分かる」
「でも、そんなことで、商談が駄目になったり、イエスがノーになったりしないでしょう」
「その影響を知らないからじゃ。気運というのがある」
「はい、分かりました」
 合田は、体力が回復したので、また走ることにした。
「気象から喩えているだけではない。もろに影響する」
「はいはい」
 合田は怪老人の話を信じたわけではないが、背中を押された。
 これで、決心が付いた。
 合田は登山用で、高度計と気圧計が付いている高価な腕時計を買う決心が、やっと付いた。この気運で。
 
   了

 


2012年10月13日

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