小説 川崎サイト

悪霊

川崎ゆきお


 昔、習い覚えたことを忘れてしまっていることがある。得た知識は、早く使わないと、消えてしまう。
 長く算数の先生をやっている人と、歴史をやっているいる先生の会話だ。
「笑い話だが、算数の数式を忘れてね。指に戻ったよ。全部で十本ある。さすがに足の指は使えない。式があったことは覚えているのだがね。それが出てこない」
「私は話は覚えているが、何年のことなのか、誰だったのかは覚えていない。名前を度忘れした。見れば分かるし、どんな人物だったのかも知っている」
「じゃ、あんたの方がましだね。得た知識をまだ使える」
「そうでもない。今はイメージだけで、ちょっと複雑な歴史的人物の絡みになると、もう駄目だ」
「退職すると、そんなものだよ。使わないと、どんどんアクセスが減る。だから、道が繋がらない」
「そういえば、竹田さんは退職後も、何やら研究しているねえ。あれは根っからの学者だ。だから、現役時代と同じぐらい覚えているんだろうねえ」
「竹田さんねえ。彼は心理学の先生だったが、今やっている研究は心霊心理学だよ」
「心霊学かい」
「そんな学問はないよ。大学にあるかい。ないだろ」
「じゃ、何だいその心霊心理学ってのは」
「心の中の霊性を扱う心理学だ」
「そんな学問があるのかい」
「知らない」
「要するに、お化けを研究しているんだ」
「化学ならいいけどね」
「それで、心理学の知識は現役時代と同じほど持っているんだね」
「ああ、だから、用語も古い言い方じゃなく、新しい言い方も覚えているらしい」
「やはり使わないと駄目だねえ」
 しかし、算数の元先生は、もう数式を覚える気はないし、興味もない。歴史の先生も同じだ。郷土史家になる気もない。やっと仕事から解放されたので、別のことをしたいのだ。または、何もしたくない。それで、たまに二人で同窓会のようなものをやり、そこで懇談している。そこが唯一の発表場所と言ってもいいが、発表するようなネタはない。互いに生存確認をしているようなものだ。
「竹田さんが羨ましいよ」
「今度呼ぼうか」
「いや、自慢話を聞かされるだけで、面白くないよ」
「そうだね。我々は何もしていないから」
「その我々でいいんじゃないのかい」
「そうだね。特にもう理想はないし」
「理想か。懐かしい言葉だ」
「竹田さんが現役なのは、心霊ネタがあるからだと思う。だから、我々もそういうネタを探すのがいいんじゃないかい」
「ライフワークというやつか」
「そうそう、生涯出来るような何かだよ」
「それは無理だ」
「どうして」
「探さないと、出てこない。こういうのは、探さなくても勝手にやってるものだ」
「そうだね」
「まあ、この店で、たまにお茶をしながら、雑談しているだけで十分だよ」
 そこに、噂の竹田が現れた。
 二人は、その姿を見たとき、幽霊が出たのかと思った。
 久しぶりに見る竹田は、別人のようになっている。
「体調でも悪いの」
「憑かれたらしい」
「疲れたの」
「悪霊に取り憑かれたらしい」
 
   了

 


2012年10月14日

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