ある面識
川崎ゆきお
「その後、元気ですか」
「はい、おかげさまで」
岩田老人は、行きつけの喫茶店で、そう話しかけられた。
「立冬が過ぎましたので、もう冬ですよ。風邪など引かれていませんか」
「ああ、少し鼻水が」
「それはいけませんなあ。あまりこういう人が多くいるような喫茶店には行かない方がいいですよ。移されますからね」
「はい、それはどうも」
「うちの孫が風邪で熱を出してね。あの登美子の子ですよ」
「ああ」
岩田老人は、この人を思い出せない。そのため、この人の子供らしい登美子という女性も思い出せない。ましてや、その孫のことなど。
「私は最近図書館へ通っています。まあ、風邪を移される可能性が高いですがね。昔読んでいた本を、また読み始めているんです。借りて読むんじゃなく、館内で読みます。何となく勉強をしている偉い人のように見えたりします。いいですよ、喫茶店はお金がかかりますが、図書館は無料です。しかも本が豊富にあり、時間も十分つぶせます」
「あのう」
岩田老人は、「あなたは誰でした」と聞きたかったが、すぐにやめた。ぼけていると思われるがしゃくなので。
「お宅の和美ちゃん、元気ですか」
その名に記憶はない。親戚にもそんな名前の人はいないはずだ。
「和美はねえ」
岩田老人はそこで詰まった。和美のキャラが分からないのだ。年齢も岩田との関係も。それでは何も喋れないはずだ。
「和美は元気です」
岩田老人はそう答えた。それ以上つっこまれないことを望んだ。
「それはよかった。ところで昨日の話なんですがね」
昨日、この人と会った記憶はない。岩田老人は、この人が人違いをしているのではないかと思った。
次に考えたのは、これは本当に人違いしているのか、それともぼけているかだ。だが、その話し方はしっかりしている。だからやはり人違いなのだ。
さらに考えていくと、岩田老人は毎日この喫茶店へ来ている。そして、この人は初めて見る顔だ。
「昨日の話とは」
「もうお忘れですか」
「何でしたかな」
「いけませんよ。こんな大事な話を」
その大事な話の中身を知りたいのだが、彼からは先に話さない。
「お受けしますよ」岩田老人は勝負に出た。
その人は鞄から書類を出してきた。
「昨日の続きですよ。さあ、ここにサインを」
この人はぼけているのではなく、これをやるのが目的だったのだと、岩田老人は確信したのだが、こんなことで人をだませるはずはない。しかし、話の流れで、サインする人もいるかもしれない。その確率に、この人はかけているのだろう。
「何の書類ですかな」
「だから、昨日あれほど説明したじゃないですか。あなたにとってきっと幸せを約束してくれる契約です」
岩田老人は、「あなた」という言葉に引っかかった。「岩田さん」とは言わないで、「あなた」だ。自分の名前を知らないのではないかと。しかし、それをどうやって相手に言わすのかが分からない。
「ここに武田とサインすればいいのですね」
「そうです。武田さん」
これで確定した。
岩田老人は武田とサインし、住所も電話番号もむちゃくちゃなものを書き込んだ。
その人はその書類を鞄に戻し、さっさと出ていった。
その後も、岩田老人はその喫茶店へ毎日行っているが、もうその人の姿を二度と見ることはなかった。
了
2012年11月10日