非日常への入り口
川崎ゆきお
闇の中にいる。自分がいることは自分で意識できる。しかし、そこは何処なのか、自分は誰なのかが分からない。記憶喪失で、闇の中にいる。だから、何故闇の中にいるのかの記憶がない。
この場合、何処まで自分について知っているかだ。思い出が思い出せない程度だろうか。過去にあったことを忘れているのだが、今のことは分かっている。数秒前の記憶はしっかりとある。なぜなら、闇の中で目覚めたときから、しばらく経過しているからだ。
だが、そこが闇の中だというのは、どうして分かるのだろうか。明るい場所での経験は消えているはずだ。だから、知覚は生きているのだろう。
そして、男女どちらかも、すぐに気付くはずだ。だが、後天的に獲得した知識のようなものが消えているとすれば、ここは曖昧だ。さらに、ここが闇の中だという認識は、言葉だ。その言葉は忘れていないのだ。
だから、記憶の全てを失ったわけではない。
闇の中でかなり時間が経ったような気がする。気付いてからの記憶は残っている。
そして、徐々に明るくなり、室内にいることが分かる。そこは無機的な部屋で、家具など何もない。
そして、ドアがある。
当然、それを開ける。
「気がつきましたか」
ここから、この人の物語が始まるのだが、記憶を徐々に取り戻していく。
高橋は目覚める度に、そんなことにならないものかとふと思う。しかし、夢の続きでも観ていない限り、相変わらずの部屋で、相変わらずの自分のまま目覚める。
旅行中、始めて泊まったビジネスホテルで、目覚めたとき、これに似た感覚になるかもしれないが、記憶までは消えない。
しかし、目覚める瞬間、ほんの僅かだが、自分を起動している最中の時がある。時というほど時間はかからない。一瞬だが、少しだけ間がある。このときの感覚が長引けば、そんな境地に入れるかもしれないが、だからといって特にすることはない。また、見知らぬ部屋にドアがあり、そこを開けるとビジネスホテルの廊下に出る程度で、誰かが「気がつきましたか」と、別の物語へ連れて行ってくれるわけではない。
だが、それらは誰かが作った物語やエピソードだが、自分のリアルな物語の中にも多少は入り込んでいる。
了
2012年11月20日