小説 川崎サイト

 

読みとる力

川崎ゆきお


 身近なことと、大きなこととが同じ波長、リズム、または同一パターンになっていることがある。
 日常の出来事と、大きな世間の流れとがシンクロする。
 大きな流れより、身の回りの流れの波長に合わせてしまうことが佐々木の場合ある。
 どういうことだろう。
 それはアナログ式のパチンコをやっているとき、それに気付いた。弾いた玉が台の上から降りてくる。水の流れのように。釘や風車で角度を変えながら落下する。チューリップや穴に入れば、当たりで、玉が出てくる。パチンコの攻略法ではなく、その流れに佐々木は注目した。
 決まったコースをたどりながら、ほとんどの玉はアウトになる。どこにも入らないで、排水溝に流れ込む感じだ。
 その軌道を追っていると、釘や風車などに当たるリズムが、何かのリズムと重なる。韻を踏んでいるような感じで。
 これは、日常の出来事なのだが、佐々木とはあまり関係のない世界だ。
 煙草を吸うときの仕草がある。煙草を何処から取り出すのかは佐々木が決めたことで、ポケットや鞄だ。服のポケットかズボンのポケットなのかの違い程度はある。また、左右どちらに入れているのかも、佐々木がいつの間にかそうなった程度のことだが、ある程度の癖がある。佐々木の癖で、これは作法や、流儀とまではいかない。ほぼ自然にそうなったパターンだ。
 世間の出来事や、今佐々木が考えている懸案とは、全く関係はない。ましてやパチンコ玉の流れなどは、もっと離れたところにある。佐々木が決めたようには流れないからだ。
 しかし、佐々木はそういうパターンを読む取る癖がある。だから、世間の出来事もパターン化して見ている。
 これは似たような雰囲気、似たような状況として。
 そして、佐々木好みのパターンがある。物事の流れだ。
 世間で起こっている物事の流れを読むだけで、もう中身はどんなものなのかが、おおよそ分かる。
 それなら相場師でもやれば儲かるのだろうが、予知能力はない。また、あるパターンに入った場合、それがどう転がるのかは決まっているわけではない。落下する滝の水を追っているようなものだ。多様に転ぶ物は多様に転び、あまり転ばない物は、それほど転ばないが、全く転ばないわけではない。
 だから、未来を予測できるわけではない。
 佐々木のこの感覚は、胡散臭いシーンに遭遇したときに、それなりに見抜く力がある。これはただの経験から出てきたものだと思うのだが、出来事ではなく、パターンとして認識するところに違いがある。そのパターンは絵柄なのだ。図のように見える。
 これは才能かもしれないが、その程度のことでは、世の中ではそれほど役立たない。
「ああ、またあの絵柄になっていくなあ」
 と、見ている程度だ。それがよい方向なのか、悪い方向なのかは明確ではない。悪い相が出ていたとしても、逆転することもあるのだ。
 だから、当てにならないので、占えない。
 だから、読みとる力があっても、大したメリットにはならない。
 
   了


2012年11月28日

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