小説 川崎サイト

 

黒田の花伝書

川崎ゆきお


 四季の草花が咲き乱れる場所。その場所は時間と関係する。四季の草花が同時に咲いている場所などないからだ。それこそ乱れている。
 だから、一年を通じて草花が咲いているということだ。
 桜は草花ではない。桜の木は草ではないからだ。草木が一体となったものとして草木も眠る丑三つ時、などがある。草木も夜は寝ているのだろうが、立ち寝だ。
 散歩を楽しむ黒田は冬でも咲いている草花を見ると、それをけなげな……などと形容してしまう。寒いのに頑張っているのだ。ただ、その季節、その草花は都合がいいから咲いているだけのことだろう。それは草に聞いてみないと分からない。
 人がものを見るとき、そういった勝手な見方をする。人に置き換えるのだろう。または我が身に。
 モミジのシーズンは過ぎたが、色づいている木の葉がある。これは花ではないが、色がいい。黒田にとり、この彩りは草花と同じような意味を持つ。目の憩いだ。
 目の正月というのがある。目出度いもを見たときだろう。これには動きが加わることもある。だが、目の憩いの冬の草花には動きがない。風で揺れる程度の動き。数日後枯れ落ちているかもしれないが、それまでは動かない。
 黒田の散歩は花巡りだ。深い理由はない。花は目立つ。暖色系の花びらは浮かび上がって見える。背景にもよるが、目に入りやすい。
 ただ、そこに人が通りかかると、花は消える。そちらにポイントが移るのは、花は何も仕掛けてこないが、人の動きは分からない。まあ、通行人なら風景に近いが、その人物が顔見知りである可能性もある。だから一応見る。危なそうな人なら逆に見ない方がいい。そして花に視点を移すのだが、そのときの花は決してのどかではない。
 他に見るべきものがないので見ている花ではない。やはり浅いテンションで見ている花が一番いい。それ以上踏み込んだ見方をすると、花を逃がしてしまう。
 黒田は、こういうことを花伝書に書かれてたように思うが、自分で書き加えたのかもしれない。
 それは本を読んでいるとき、そこで連想したことが記憶に残り、本文を忘れていることもある。
 本の本文もそうだが、黒田の生き方としての本分も忘れがちだ。
 分をわきまえているつもりだが、何となくそうなってしまうような感じで歩んできたように思える。
 というようなことを、黒田は散歩しながら考えた。
 
   了

 


2012年12月28日

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