小説 川崎サイト

 

霞んだ視界

川崎ゆきお


 視界がやや霞んでいる。目が疲れたのだろうか、と山田は思った。
「眼鏡が曇っている」
 ここで眼鏡のレンズを拭き、霞がなくなれば、それは眼鏡のためだ。目が疲れたからではない。
 山田は眼鏡を拭く。
 すると、鮮明にコーヒーカップが見えた。灰皿の中の灰の散り具合もよく見える。やはり、眼鏡のせいだった。二日ほど拭いていなかったのだ。
 しかし、あまりにも鮮明に見えるため、目の置き所がない。明確にものが見えるのも考え物だ。といって眼鏡を汚して、元に戻すわけにはいかない。それにどうやって汚すのだ。
 その曇り方になるまでには二日ほどかかる。埃などが付着してそうなったのだろう。次回曇るのは二日後だ。それまで待つしかない。じんわりと曇ったのだから。
 しかし、曇りは一瞬に取り払われる。まるで別の眼鏡を掛けているようになる。
 明確に見えると、それだけ情報量が多くなる。しっかりとものを見ないほうが楽なのかもしれない。どうせ見ても見なくてもいいようなものしか目の前にないのなら。
 目ではそれほどよく見えていなくても、ものの本質がよく見えている人がいる。細部の細かい箇所に囚われないで、本質を見抜くということだが、それもまた当てにならない。勘違いや錯覚が結構ある。
 それならば、細かい箇所がよく見えるということを楽しむのがいい。見たくもないものは霞んでいてもいい。しかし、もっとよく見たいものは鮮明な方が好ましい。
 眼鏡を拭いた山田は、しばらくはよく見えすぎて困ったが、そのうち慣れてきた。そして、特に鮮明に見えているとは思えなくなった。霞んでいるとも鮮明とも思わない。つまり普通だ。そのため、どう見ているのかは気にならなくなった。
 目の前のものはよく見えるが、山田自身の進路は何も見えない。こればかりは、眼鏡をいくら拭いても何ともならない。
 山田は進路に関わる事項をいくつか抱えている。その一つ一つ、どれも先が見えない。この場合、読めないということだろうか。
 おそらくそうだろうというような予測をしていても、外れることが多い。そこが外れると、別方面から攻めるしかない。そこも当てにならない。
 つまり、山田は見晴らしの悪い位置にいる。
 しかし、どんな位置にいる人でも、その先の見通しがスーと見えている人などいないかもしれない。
 それは、ある夜の道路で、信号機が全て青で、走れど走れど青々青、のようなものだ。
 逆にそちらのほうが薄気味悪い。多少の邪魔や、歯ごたえは必要だろう。
 先が見通せず、目の前が曇っている状態。これはこれなりに悪くはない。と、山田は思うようにした。
 
   了

 


2013年1月26日

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