小説 川崎サイト

 

釣り落とした魚

川崎ゆきお


 ふと思い浮かんだことを忘れてしまうことがある。賞味期限が短いのか、他のことで、その箇所が入れ替わってしまうのか、それはよく分からない。
 高橋が分かっているのは、忘れてしまうことだ。釣り落とした魚は大きいということだろうが、そのときは大したことではないと思っていた。大きな魚ならその場でメモを取るだろう。
 しかし高橋はいつでも思い出せる考え、何もしなかった。
 一日経つとすっかり忘れている。その糸口もない。その糸の先に魚がいたのに。
 記憶は細胞に記録されるらしいと、高橋はテレビニュースで知った。ねずみの実験だ。そのことは以前から知られていた。しかし、パソコンで作ったファイルのように、そのまま残っているとは思えない。そうではなく、インデックスではないかと。脳は省エネでケチだ。大きなファイルを扱うのが苦手だ。
 高橋がふと思い付いた事柄は、曖昧なところで浮いていたのだろう。周囲の記憶とまだうまく関連づけられていないのだ。
 何かに関しての何かを思い付いたのだが、母体の最初の何かを忘れている。だから、手がかりがない。
 しかし、そのとき思い付いたアイデアは、ほどほどのもので、まずまずのものだった。まずまずなのでメモしていない。だから印象として薄いのだろう。今考えると、大したアイデアではなかったように思う。
 その思いつきはどこから来たのだろうかと高橋は考えた。
 テレビを見ているとき、ふと思い付いたのだ。しかし、そのテレビ番組も忘れている。そのため、その思いつきはいきなりワープしたのだろう。だから、テレビ番組が問題なのではなく、またそこと関係していない飛び方なのだ。
 飛び地、そこからいきなり湧き出たのだろうか。
 これは、ある事柄に接して、どう思ったのかという程度のものだ。
 こういう忘れた文脈がデジャブの正体かもしれない。全てではないだろうが、その一部をなしているのではないか。
 それは浅い記憶で、印象もそれほど強くはない。非常に些細なシーンだ。
 高橋は、忘れてしまった「ふと思い付いたこと」より、何故忘れるのかについての方に興味が行った。
 自信はあった。いつでも思い出せると。しかし、見事に忘れている。三日前に食べた夕食のように、見事に。
「そうか」
 高橋は何やら発見した。
「寐たからだ」
 つまり、睡眠中、整理されてしまったのだ。ゴミとして。
 しかし、デジャブ説が正しければ、ゴミとなっても、完全に捨て去られたのではなく、ゴミ箱にまだ残っているはずだ。
 そのゴミ箱内にあるとして、今度それを思い出すとすれば、何らかの引っかけがいる。
 ゴミ箱が池だとすれば、偶然その池のある場所に糸を垂らせば釣り上げられるかもしれない。
 しかし、高橋は期待していない。
 なぜなら、過去にそんなことが何度もあり、その「ふと思い付いた」ことを思い出せたのだが、大したことはなかったからだ。
 
   了


2013年1月27日

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