欠落の記憶
川崎ゆきお
よく通っている道なのだが「ここは何処だろうか」と思うような一瞬がある。それは一秒か二秒だ。それが過ぎるとすぐにいつもの道沿いになる。
何が起こったのか。
それは角地にある大きな建物が消えており、目隠しの布が塀のように続いているのを見たときだ。そこにあるべきものは塀ではない。そして空がよく見える。遮られていあ建物が消えたのだ。見晴らしがよくなったのだが、そこに詰まっていたものを思い出せない。
これが友人の家や、一度でも訪ねた家ならまた違うのだろうが、こちらと無関係に並んでいる家並みの場合、いちいち覚えていない。しかし通過するときは、確実に見ている。
この違和感は始めてこの通りに踏み込んだ人には起こらない。最初からそういう風景だと思うためだ。
これは初対面の人と、見知っている人との違いもある。知っている人でも、以前とは違う印象で現れる。ほとんど差はないのだが、これが十年に十年ぶりの再会となると、違和感を覚えるだろう。
だが、欠落した建物に関しては、完全に消えているので、以前と今とを比べられない。ただ、同じ敷地なので、土地は同じだが、最初から地面しかない場所なら、それもまた風景の一つ、街並みの一つになるが、上物としての建物にはキャラ性がある。
建物はキャラクタではないが、住んでいる人が何となく浮かび上がる。きっとこういう人達、家族が住んでいるのだと。
家は衣服ではないが、それに近いところもある。
それよりも、一瞬「ここは何処だろう」と錯覚したときの新鮮さも悪くはない。
新たな発見なのだが、あるべきものがないだけのことだ。しかし、そのおかげで妙な塀を見ることができ、さらに隣家の裏側も見え、さらに隠されていた空も見える。
あるものが消えると別のものが出てくる。それは最初からあったものだが、通りからは見えなかったのだ。だから決して新たなものではない。
しかし、その敷地に何が以前あったのかが思い出せない。聞けば分かるだろうが、それほどのことではない。
そしてそれを知ったとしても、「ああ、あれだったのか」程度のことで、確認する程度に過ぎないだろう。
そして新しいものが建つと、最初は目立つが、すぐに見慣れてしまい、その後は視界に入っていても、何でもないものになるようだ。
了
2013年2月5日