小説 川崎サイト

 

大物俳優の演技

川崎ゆきお


 ある大物俳優がいる。彼は役作りをしない。台本も読まない。自分の台詞は撮影直前に覚える。
 台本を読んでいないので、どんな話なのかも知らないが、おおよそは分かっている。監督やキャストの顔ぶれを見れば、何となく分かるのだろう。
 それを見ていた新人俳優は、演技の抜け穴を見る思いだった。
 彼は台本を熟読し、さらにそれに関する資料も見たり、その背景となる場所まで見に行っている。そして、その役になりきるため、所謂役作りに励んだ。
 心からその人になりきらないと、それが何処かに出る。映像には映っていないが、滲み出る。その空気が映るのだと新人俳優は言われ続けた。
 しかし、あの大物俳優は、そんなことをしなくても、登場人物として溶け込んでいる。気持ちなど込めていなくても、出来るのだ。
 きっとそれはその場で、急ごしらえでそう言う人物になりきるのだろう。どういう人物なのかを知らなくても、表情を繰り出す感じだ。
 台本を読まない。リハーサルもしない。台詞はワンシーンだけしか覚えない。台詞に何かを込める時間さえないだろう。しかし、それが出来るのだ。
 よく考えると、それは誰にでも出来る。子供でも出来ることではないだろうか。たとえば子供が大人の役を遊びでやる。ままごとごっこで母親になる。それは出来るのだ。別に演技の練習をしていなくても。
 新人俳優は考えた。みんなそれを知っているのではないか。
 とっさに芝居の出来る人。これは天性のものだろう。あの大物俳優もそれを持っている。そう言う人は小学校の一クラスに二人か三人はいる。だから、特別な才能ではない。その小学校全体では何十人もいることになる。これはゴロゴロいるということだ。
 とっさに芝居が出来る。これは何だろう。
 この場合、台本に合わせてとっさに芝居が出来ること以前に、日常生活でもそれが出来る人だ。
 新人俳優は、さらに分析した。
 それは、ある程度引いて物事が考えられる人ではないかと。だから心からそう思えないことの方が、作りやすい。つまり、入り込みすぎると、それは演技ではないのだ。
 しかし、その新人俳優は、そんなわけにはいかない。やる気がないように思われるし、しっかり演技に取り組んでいないと取られる。だから、これは態度の問題ではないかと。
 役者というのは本来嘘っぽい、本気の演技ではなく、嘘気こそ演技なのだ。
 その大物俳優が今さっき覚えたばかりの台詞を吐く撮影現場を見た。本来なら未消化だ。しかし、その台詞を何度も何度も練習し、練り回すより、覚えたての台詞を吐くときの方が鮮度がある。本人もどんな喋り方になるのかは分からない。その台詞がすっと頭に入り込んだときの新鮮な表情。その台詞そのものに驚いたりもする。それらが微妙な表情となって現れている。その調整がうまいのだ。
 心から、気持ちを込めて、役になりきって、全体のことを考えて、等々はいらないのではないか。
 と、新人俳優は思ったのだが、そんなことを言える地位ではない。
 その新人俳優は、その大物俳優が好きだ。どんな役をしてもからっとしており、嫌味がない。
 台詞を忘れたのか、しばらく間が開く、しかしその間をうまく使い、台詞を思い出したときは、早口になる。しかしそれが自然に見える。
 新人俳優は、それに憧れた。しかし、先は途方もなく遠い。
 
   了

 


2013年2月14日

小説 川崎サイト