こんな仕事はあと一年程しか持たないと高橋は感じた。自分は外向的な性格で人と接するのが好きで、営業に向いていると思っていたのだが、想像以上の精神疲労に襲われた。
しかし成績はよく、営業部のエースだった。その高橋がライバル視する男がいる。決して成績はよくないのだが、毎月必ず一定の仕事を取って来る。彼こそが営業のプロで、自分はただ頑張っているだけの素人に過ぎない。
高橋にそう思われている木村は、どう見ても風采の上がらない男で、高橋以外は誰もその素質に気付いていない。
高橋の先輩にあたり、営業のいろはを教えたのもその木村だった。
数カ月で木村を抜いた高橋は、自分に素質があり、この仕事に向いていると早合点した。社内の誰もがそれを認め出したのだが、木村だけは知らぬ顔でいた。
その日も高橋はダメージを受けて戻って来た。営業は成立するより、不成立のほうが多い。
「木村さん、話があるんですが」
高橋は木村に相談することにした。
ガード下の一杯飲み屋は勤め帰りの客で混雑し、声も聞きとれないような落ち着けない場所だった。
「大声を出せば聞こえますよ」
高橋は悩みを大声で木村に話した。すると悩みが口から吐き出されたような気持ちになった。
「高橋君。君は賢すぎるんだ。知恵が回り過ぎるんだ。人の心を掴むのもうまいし、好感も持たれる。まあ、それだから成績もいいんだよ」
「でも、疲れてしまいました」
「肝心なことを教えるのを忘れていた」
「えっ。よく聞こえなかったんですが、もう一度」
「肝心なことを教えなかった」
「それ、聞きたいです」
「最初にそれを言うとまずいからね」
「この店の魚もまずいですね」
高橋はイワシの刺し身を箸でつつく。
「イワシの目だよ」
「えっ」
「腐ったイワシの目」
「それが何か?」
「馬鹿の目だよ」
「何が言いたいのですか?」
「ダメージを受けるのはね、壁が薄いからだよ。すぐに破られてしまう」
「壁って?」
「馬鹿の分厚い壁だよ」
「はあ……」
「俺がのうのうとこの仕事やってられるのはこの壁のお陰だ。成績は悪いけどね」
「でも、僕は馬鹿にはなれません」
「だから君は賢いから成績がいいんだよ」
高橋は数カ月後、賢者の薄い壁が破れ、仕事を辞めた。
了
2006年9月24日
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