小説 川崎サイト

 

季節は春でも

川崎ゆきお


 季節は春でも心は冬よ、と磯村は嘯いた。特に意味はない。口癖なのだが、これは春先にしか呟かない。
 では、梅雨明けの夏にはどう呟くのだろうか。空は晴れても心は闇よ、だろうか。
 つまり、磯村は暗い方向へポイントを落とすようだ。これは浮かれなくてもいいので、安定しているかもしれない。
 かもしれないとは、ほとんど正解ではない。間違ってはいないが、正解の枠内からやや遠い。入っていないわけではないのだが。
 磯村の比喩は、物理的な、そして具体的な現象ではなく、精神的な事柄だ。気の持ち方にすぎない。磯村が感じているだけなので、それは世間とは別問題だ。
 善いことも悪いことも、気持ちとは関係なくやって来ることがある。ただ、磯村は悪い面ばかり見ているので、より多く悪いことばかりを集めている。善いことも起こっているのだが、無視している。実際には喜んでいるのだが、それで楽しみたくはない。
 それで磯村はいつも暗い顔をしているのだが、それが防御になることもあるらしい。
 友人知人はほとんどいない。人と人との繋がりなど、最初から期待していない。人は人によって活かされているのだが、それを言いすぎない。
 さて、春先、久しぶりに暖かい日、磯村は陽の当たる場所を歩いていた。さすがに暗い磯村だが、陽の暖かさは悪くはないと思っている。これは温度の問題だ。だから、日陰ではなく、陽の当たる場所を選んで歩いている。心は冬だが、体は春の方が好ましい。だから、わざわざ選んで日陰に入らない。
 夏はさすがに暑いので、日陰を選ぶ。そのあたりは単純なので、あるポリシーで統一しているわけではない。
 電車に乗ったとき、すいている場合、磯村はど真ん中に座る。意外とそこに座る人がいないためだ。
 磯村は何事につけても否定的な生き方をしているのだが、肯定的なものを選択するときは、選択したことさえ分からないほどすんなり決めている。そのため、非常に肯定的な前向きなものを選んでいることがある。ただ、それに対して意識的になっていないようだ。
 それで、均してみると、それほどバランスの悪い人ではない。本人が思っているほど暗くはないのだ。
 だが、どうして暗い目に、そして否定的に物事を見るのかというと、リスクを気にするからだ。これもまた、普通なのかもしれない。
 そして「季節は春でも心は冬よ」と、再び呟く。この言葉に、本人も何となく可笑しさのようなものを感じているようだ。
 
   了

 


2013年3月7日

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