小説 川崎サイト

 

テレビの世界

川崎ゆきお


 家でごろごろしている大宮は一日中テレビを付けっぱなしにしていた。
 ある日、他のことで慌ただしかったので、テレビを付けるのを忘れた。
 リモコンのボタンを押すだけでよい。ただ、テレビの手前に電話機があり、それが通信の妨げになるため、やや高い位置から押さないと駄目だ。それで、一度押したのだが、低かった。もう少し高い位置からでないと、反応しない。
「まあ、見なくてもいいか」と大宮は思い、テレビを付けなかった。
特に好きな番組があるわけではないので、テレビを見るのが楽しいということではない。
 テレビを消すと、室内がシーンとする。その代わり、近所の人の声が聞こえる。何を話しているのかまでは分からないが。
 さらにドアの音や、犬の鳴き声もする。雀も鳴いている。
 つまり、テレビを消すと、今まで聞こえなかった情報が入ってきた。
 テレビを付けっぱなしにしているときは、それなりにテレビからの音を聞いていた。おそらく散歩をねだる犬の声も聞こえていたはずなのだが、テレビの音が先だ。
 大宮はネットもやっているので、ニュースなどはそれで分かる。
 しかし、二三日ニュースを読んでいないこともある。しかし何ともない。
 この何ともなさは何だろう。映像で見るテレビニュースの世界が、番組という世界の中で括られているように見えてしまう。政治や経済のニュースを見なくても、特に困るようなことはない。それを知っていないと大変なことにはならない。ほぼ昨日と同じような今日が来ている。そこに政治も経済も、そしてスポーツも関わってこない。
 天気予報さえそうなのだ。空を見れば分かる。
 政治的な大きな動きがあっても、窓の外では何の変化もない。ただ選挙の時は選挙カーが通るのだが、これも変わったことではない。
 スポーツ選手が何かの大会で金メダルを取っても、大宮には関わりのないことだ。親戚縁者や、すぐ近所の人が取ったのなら別だが。
 物価が上がるニュースを見なくても、今まで百円のものが百二十円なっていれば、そのとき気付けばいい。必要なのは、端数の二十円があるかどうかだ。小銭を用意すればいい。なければ釣り銭をもらえばいい。高いと思うのなら、別の安い物を買えばいい。それだけのことなのだ。
 テレビを消した方が、自分がどんなところに住んでいるのかがよく分かる。町の話ではなく、隣近所の話だ。
 しかし、それでは退屈なので、大宮はまたテレビを見るようになった。
 それは世間を映しているものとしてではなく、テレビの中の世界として。そして、これは退屈しのぎで見る程度のものなのだ。ただ、真剣に見ているほうが楽しめる。
 
   了


2013年3月20日

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