小説 川崎サイト

 

聖なる棚

川崎ゆきお


 人の運命は分からない。運命は自分が作るものだと言われているが、そうではないことも結構ある。それもまた起こりうるして起こったことなのかもしれないが、人はそうは思わない。特に予測できないことに遭遇したときだ。これは自己責任として納得できないだろう。それでも仕方なく受け入れるしかない。これも運命と諦めて。
 増田老人の家には仏壇も神棚もない。つまり聖なる場がないのだ。しかし、両親の写真を飾った棚がある。体調が悪いときや、妙なことに巻き込まれたときなど、水を供えたりする。そういうことをしても効果はないのだが、何となく心が安まる。そして非常に安上がりだ。
 この棚を一応聖なる場所としているのだが、普段は埃を被っている。困ったときの神頼みに近い。両親は神ではない。だから、一種の先祖崇拝かもしれない。その先になると、曖昧になり、もう誰か分からなくなるまで遡ってしまうので、この距離は神話に近くなる。それ以上行くと猿まで戻ってしまいそうだが。もっと行くと生命そのものにまで行く。そして宇宙まで行ってしまう。そこまで行くと遠すぎるのだが、こういうものは抽象的なほど有難味がある。
 運命は目に見えないシナリオだが、自動的に書かれたものかもしれない。機械的に書かれているのだ。シナリオライターが意図して書いたものではない。
 だから、どう書かれるかは分からない。また、これはライブだ。シナリオの要素となるものを、本人や周囲が加えたりする。それらを意図的に操作して、機械式シナリオの流れを変えることも出来るだろう。これは普通に誰もがやっていることだ。しかし、意識していないものは弄れない。
 増田老人はそれが面倒になり、善いシナリオでも悪いシナリオでもいいから、よろしくお願いしますというような感じになっている。それをお願いする場所がないので、棚に聖域を設けたのだ。これはその場所に意味があるわけではない。昇る朝日でも、遠くに見える山でも構わない。単に体を向ける方角、目を当てる場所があったほうがいいだけなのだ。当然、空でもいい。
 それらの行為が、単に精神的なものだけで終わるとは思うものの、万が一と言うことがある。
 その万が一とは、聖なるものによりシナリオが変わる動きが加えられるということだが、これはこれで手垢が付きすぎている。
 そういう増田老人の聖なる棚も埃が付きすぎているのだが。
 
   了





2013年4月2日

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