小説 川崎サイト

 

神像

川崎ゆきお


 神像だろか。よく分からない。高橋はそれを本棚に置いている。本を出すとき邪魔なので、滅多に取り出さない上の方の棚に置いている。十センチほどの高さだ。何となく輪投げの景品のような感じがするのだが、骨董市で買った。上薬のためか、表面はつるっとしている。茶碗と同じように焼き物なので、落とせば割れるかもしれないが、かなり分厚く重い。
 似ているとすれば大黒さんやエビスさんの貯金箱だ。
 その神像は首だけのひな人形や、火箸など、ガラクタを集めた箱に入っていた。だから、由緒あるものではない。
 神像はあぐらをかいて座っている。そのお姿はお公家さんに近い。ただし小太りで、頭が結構大きく、四頭身ほどだ。
 これを神様だと言われても、ぴんとこないが、骨董屋の親父は神像だと言い切った。天神さんの菅原道真も神様なのだから、その像も神像ということになる。しかし、非常に人間に近い神様だ。高橋はちょっとそれが気に入らない。神様らしく見えないのだ。
 それでしばらくして、神像への興味もなくなったのか、目に入っていても、見ていない存在になった。旅先で買った土産物の人形やお面などと、同じようなレベルになっている。よほどのことがない限り、捨てることはないが、もし引っ越しでもすれば、そのときガラクタとして処分するかもしれない。
 さて、その神像だが、結果的にはすっかり部屋に馴染み、室内の一部になっている。
 その頃だろうか、神像のお顔に親しみを覚えるようになった。たまにしか見ていないのだが、机の前の壁にある本棚なので、何となく見てしまうのだ。
 結局、目が合った。
 と、言っても神像は正面を向いており、目も真正面を見ている。ただ、分かりにくい目の形なので、何処を見ているのか、分かりにくい。藪睨みなのだ。
 見られていると思えば見られているし、見られていないと思えば見られていない。だから、どうとでも解釈できる。
 よく見ると、この神像には目はあるが、黒目がない。そこまで書き込めなかったのだろう。だから、目が合うというのもおかしい。
 それで、また神像への興味を失ったが、意識していなくても、そこにあるだけで十分な存在となった。逆になくなれば寂しくなるだろう。
 この神像はその後、特に変化はない。怪異を現すこともない。
 ただ、この部屋や高橋に馴染んだお顔になっている。もし、この神像を他の別の場所で見たならば、家族と出合ったような思いになるに違いない。
 
   了




2013年4月10日

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