小説 川崎サイト

 

験を担ぐ

川崎ゆきお


 験を担ぐことがある。これは迷信のようなものだが、迷信集に載っていないような、個人的な験担ぎがある。
 迷信の字面を見ると、迷う、信じるを連想する。迷ったときに信じるべきものがあるのだろうか。実際には誤って信じたものだろう。迷い事なのだ。本来から逸れて迷っている。それを信じている状態。
 大村は験をよく担ぐ。ただ、それは個人的なジンクスのようなものだが、この場合の験とは体験の験だ。以前にもそういうことが起こった後、とんでもないことになったとか。
 だから、お知らせのようなものだ。
 大村の験担ぎは物の変化で来る。たとえば茶碗が割れる。すると悪いことが起きる。これは迷信だろう。だから、人には言わない。
 精神的に不安定なとき、手元がおろそかになり、割ってしまう。だから割れるだけの理由があったと。これはこれで、こじつけだろう。
 さて、大村の場合は茶碗が割れると何が起こるのか、それは起きてみるまでは分からない。そして、その茶碗はどんな茶碗だったかが後に関係してくる。また、割れるがキーワードで、何かが割れるのだ。しかし、これもかなりこじつけになる。
 それらは迷信であり、因果関係はないとは思いつつも、どうも気になる。それはいつもと違うことが起こるためだ。そのため、目立つ。
 茶碗が割れた後、五年後に茶碗に関するトラブルがあったとしても、これは遅いので、忘れているだろう。そういえば五年前茶碗が割れたのは、このことだったのかと、思い出すだろうか。
 しかし、茶碗は滅多に割れない。ずっと無事でいる茶碗もある。だから、割れると不吉な感じがする。その不吉だけを残し、何も起こらないこともある。
 大村は迷信を肯定するものではない。だから迷信家ではない。占いも信じないし、神社で願もかけない。そのため、そういうことからかなり遠いところにいるのだが、験をよく担ぐ。それは大村個人だけに起こっている暗黙のお知らせのためだ。
 普段と変わったことがあれば、全てそちらを考えるのではなく、何となく分かるのだ。つまりこれは担ぐべき兆候だと。それがどうして分かるのかは分からない。分からない間に分かってしまう。ここが不思議で、そういう錯覚を起こす理由が何処かにあると、探したことはあるが、瞬時にそれが来る。しかも非常に確信的に。これは、ただの反応ではないかとも考えたのだが、何でもかんでも反応していない。
 また、これは神秘体験でもない。近いのは共時性だ。しかし、それも普段から思っていないと出ないだろう。
 不思議なこととは、そう言うことを考えてしまうことが不思議なのかもしれない。
 
   了



2013年5月25日

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