小説 川崎サイト

 

桜の枝

川崎ゆきお


 桜の太い幹から細く小さな枝が出ており、そこに若葉が開いている。花見シーズンを過ぎると、もう桜を見る人は少ない。桜とは桜の花のことで、桜の木ではなかったのだろう。人は花を見る。目立つからだ。そして目にも麗しい。
 人にも花のある人がいる。華やかな人ということだが、それだけではなく、人を引きつけるものを持っている。それが何かは分からない。
 誰でも一生に一度は花咲くことがあると言われているが、それは花の種類にもよる。咲いていても見向きもされない花もある。さらに一生に一度なら、継続性はない。
 大村は、もうあまり注目されなくなった桜の太い幹から出ている枝葉を見ながら、自分はこれではないかと、ふと感じた。葉だけでもいいと。桜餅の葉のように。
 それは偶然散歩中、信号待ちで立ち止まったとき、桜の木を見て思ったことなので、ただの思いつきだ。これがヒントになり、後の展開が開けるわけではない。そんなことは過去にもなかった。
 そう言えば、その小さな葉も、幹から出たとき、咲いていたように思う。この木ではなく、別の木だ。咲いている時期より、枝葉の時期の方が長い。
 ただ、桜並木の幹をよく見ていると、瘤だらけだ。メインの幹から出ている余計な枝は切られている。大きな瘤はかなり長くそのままの状態だったに違いない。邪魔になるほど太い枝を伸ばしていたのだろう。
 そうすると、根元近くの幹から出ている枝は、いいポジションではない。切られる運命がもう見えている。
 次に目にしたのは、桜の根だ。地中から半分露出し、大蛇の胴体のように浮き出ている。ここにも新芽が出ている。これはどうなのかな、と大村は考えた。その根は植え込みの中にあり、背の低い灌木と共にある。この枝が伸びてくると、邪魔になるだろう。だが、幹からではなく、根から伸びている。しかし、これも灌木の手入れのとき、切られるだろう。だから、つかの間の命だ。
 そういうのを見ていると、生きながらえるため、最大の努力を桜の木がやっているように思えてしまう。
 どうせ伸びても切られてしまうとは、桜の木は思っていない。しかし、桜の木にしてみれば、メインの幹が枯れたとき、この根から直接出ている枝は非常用としていいかもしれない。もっともメインの幹が枯れるほどの事情があるのなら、根も駄目かもしれない。
 無駄になるかしれないが、枝を伸ばすのは大事なようだ。大村の得た教訓はごく僅かなもので、人生に花を咲かせるような大発見ではない。ただ、多くの人が、それに近いことを地味にやっているように思え、むしろこちらのほうが、深く心に刻まれた。
……ような気がするだけで、翌日は忘れしまったが。
 
   了




2013年5月31日

小説 川崎サイト