小説 川崎サイト

 

梅雨

川崎ゆきお


 雨が降っている。初夏の雨。梅雨だろう。しかし梅の気配はない。梅を感じることもない。梅を見たのは春まだ浅き頃。桜の前だ。その梅の木はまだあるのだが、もう見ることはない。これは桜もそうだ。
 梅を最近見たとすれば、梅干しだ。これは三日に一度ほど見ている。食欲がないとき、お茶漬けに梅干しを入れて食べる。
 梅雨ではなく、雨期と言えばいいのだろうが、外国のように聞こえてしまう。やはり何となく梅雨なのだ。ただ、言葉としての「つゆ」はもう梅とは関係がないのかもしれない。「うき」ではなく「つゆ」なのだ。
 作田は「つゆ」で牡丹灯籠を思い出す。怪談だ。「おつゆ」さんという幽霊に魅入られた浪人の話。夜な夜なの逢瀬で窶れていき、会えないようにするため、家にお札を貼る。それでおつゆさんは入ってこれなくなる。
 作田にとり、梅雨は、このおつゆさんで「露」と書くのだろうか。水に関係しているだけのことで、何の繋がりもない。
「露入り」「露明け」「露前線」いずれも、そう聞こえてしまう。露と雨とか重なるので、大きく外れることはないのだが、意味が世間とは違う。
 作田は一日何度か外に出ている。散歩のようなものだ。買い物もある。雨だと足止めになる。牡丹灯籠とは逆に出られなくなる封印を貼られているようなものだ。しかし、出ようと思えば出ることは出来る。だが、濡れると嫌なので、雨の日は外出したくない。
 その封印を破り、外に出るととんでもないことに遭うわけではない。だが、出てはいけないという警告のように感じてしまう。そのため、雨の日は消極的になる。低気圧で気も重い。浮かれた心も起きにくい。
 しとしと降る雨を窓越しに見ていると、何となく落ち着く。雨で足止めも悪くはない。この場合、交通機関が止まっているわけではない。気持ちが止まっているだけのことだ。
 たまにはこの状態も悪くはない。
 
   了



2013年6月21日

小説 川崎サイト