小説 川崎サイト





川崎ゆきお



 今の思いが伝わらない。昭一は当然だろうと思う。なぜなら伝えたい相手は自分自身なのだ。
 その自分自身がよく分からない。それは昭一なのだが昭一ではない。昭一の知らない昭一なのだ。
 昭一はそんなことを思いながら釣り糸を垂らしている。ちょうどこの池の中にいる昭一に伝えようとしているように……。
 池は山の斜面に囲まれ、森閑としている。他に釣り人はいない。魚がいるのかさえ分からない。
 昭一は渓谷釣りに来ていたのだが、嫌な釣り人がおり、顔を合わせたくなかったので、川から離れ、うろうろしているうちにこの池を見付けた。
 もう三十分は経過している。ウキが動く気配はない。
 昭一が伝えたかったのは、気に入らない釣り人を避ける必要はないということだ。その釣り人とは何度も顔を合わせている。あの渓谷のヌシのような男だ。
 ヌシは話しかけたりはしない。目を合わせば会釈する程度だ。
 ヌシは受け身で、話しかけられないと何もしない。威張ったり仕切ったりはしない。
 それなのに昭一はあのヌシが嫌なのだ。それが分からない。嫌だと言っているのは池の中の昭一で、そいつが昭一に伝えるのだ。昭一はそうかと思い、嫌がってしまう。
 その逆はない。片方向なのだ。
 昭一は渓谷のヌシは嫌な男ではないと伝えたい。嫌がるような相手ではないと伝えたい。それが伝わらないばかりに、こんな濁った池にいるのだ。
 昭一は池の周囲を歩いたが、淵には足跡さえない。釣り人さえ入り込まない場所なのだ。
 小一時間経過したとき、ウキがピクリと動いた。昭一はタイミングを大きく外したが横へ振ってみた。手ごたえはない。
 それより何かが食いついたことで驚いてしまった。
 やはりいるのだと、今度は真剣にウキを見つめた。
 この池の中に俺がいる。こいつを釣り上げ、言い聞かせてやるのだと昭一は意気込んだ。
 そして、今度はウキが水中に沈むほど引いた。釣り竿がしなった。大物の手ごたえだ。もう一人の俺はこんなに大物なのかと感動した。
 しかし、シュワンと竿が軽くなった。糸が切れたのだ。
 昭一は落胆したが、すぐに気を取り直した。下手にあいつを釣り上げないほうがよいと感じたからだ。
 
   了
 
 
 



          2006年10月18日
 

 

 

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