物語
川崎ゆきお
人に物語あり。大村にも物語がある。それは生まれて今日に至り、また未来向けての物語だが、物語れるほどのものではない。しかし、物語としては立派に存在している。ないのではなく、ある。
物語は最初は与えられるのだが、そこから先の展開は、自分で作ることになる。これは作為的に作らなくとも、何となくそうなるところのお話になる。
物語は一人では出来ない。人が登場する場合、相手キャラの物語と重なる。その相手キャラはこちらから接触したものではなく、向こうから来た、あるいは偶然の出会いかもしれない。そういうことがあるので、一人で勝手な物語をこしらえようとしても、なかなかそうはいかない。
大村の場合、それほど積極的な生き方ではなかったので、成り行きで、何となく生きてきた。その中でも、自分なりの好みや希望は当然入れている。わずかに作れた物語だ。ただそれも平凡で、よくあることなので、語れるほどのものではない。しかし大事なのは、自分自身が読者になった場合、それほど悪い話ではないことだ。十分物語として成立している。
あのとき、ああだったから、こうした、こうなったとか。
物語には偶然性が多い。この偶然は物語のための辻褄合わせだと、かなり胡散臭いのだが、人生そのものが偶然で成り立っているのかもしれない。胡散臭くない偶然とは、物語の予定に合わせないで取り込むことだろう。
つまり、大村の物語はまだ結末を迎えていない。だらだらと続く物語で、何処かでスコンと終わるのだろう。決してそれは物語的には完結ではない。途中なのだ。
大村は、過去を振り返り、そこから自分らしい物語性を引き出す。というより編集し直す。今日、ここで、こんなことがあったのは、あの昔、こういうことをしていたためだ。というように。後付け、後説なのだ。
ただ、今日、明日あたり、興味深い展開になる可能性が高い場合、それは後の物語の見せ場になるような気がすることがある。まだドラマは始まっていないのだが、これは来るぞ、という感じだ。
つまり、後説ではなく、これからライブが行われる。物語が予測できる状態。そして大いに盛り上がるだろうと思える状況。それがもうすぐ来る。そんなときもある。
そして、後日、それは思い出したくもない結果になった場合、メインストーリーではなく、単なるエピソード程度に編集し直す。
大村の物語は、一種の整理かもしれない。
そして日々、違う展開、別な話への展開を、何となく期待している。当然本人が楽しめるような話だが。
了
2013年7月16日