好み
川崎ゆきお
好みは変わるものだ。今まで好きだった食べ物と疎遠になる。縁遠くなる。これは人ではなく、単なる食べ物なので、それほど大きな影響はなく、人生規模の話ではない。ただ、食生活というのも、人生では最大のものかもしれない。これは生命体としての話だが。
ここで言う人生とは、人と人との関係や、その関わりのことを指すことが多い。そしてドラマチックだ。人生を感じるのはそういう時だろう。ただ、毎日毎日食べているご飯に、それほど人生は感じない。しかし、どんなことがあっても、ご飯だけは食べていたわけで、そうでなければ普通には生きていないだろう。食べないと動けない。
ただ、この「食べる」は、食べて行くという意味で職業を指すこともある。こうなると人生らしくなる。「あの人はあれで食べていたのだ」と。そして、そのことで食べるには大変な努力が必要で、一人前になるまで、大変だっただろうなあとか。
さて、人生規模ではないものの、好みが変わることがある。歯が悪くなり、硬い煎餅を食べなくなったなどは、よくあることだ。これは硬い煎餅が嫌いになったわけではない。まだ好きなままだ。しかし、バリバリかじれないと、気持ち良くない。
煎餅とは疎遠になったが、柔らかな煎餅ならまだいける。歯に優しい煎餅だ。これならかじれる。煎餅のどこが好きだったのかにもよるが、歯ごたえのない煎餅でもいけるのなら、問題はない。他の人は軟らかいと感じても、本人にとってはそれはまだ硬い目だったりする。
好みが変わるのは、気持ち良さと関係しているのかもしれない。何かの都合で、気持ち良くなくなれば、もう好まなくなるかもしれない。主観的な気持ちの問題だけではなく、物理的な問題で、そうなることがある。
好みは大事だが、余裕のある時だろう。ここにちょっとした人生規模がある。その好みや快感に引っ張られている。ただ、好きな食べ物を手に入れるほどには容易ではないこともある。もしかすると一生手には入らない好みかもしれない。
当然だが、人により好みは違う。真逆のこともある。好みは頭だけではなく、体感的だ。絵にも言えぬ良さのようなものは、説明しようがない。
好みを夢と置き換えれば、何かに引っ張られるように、動いていることが分かるかもしれない。ただ、好みの幅や質は様々だ。
非常に単純な、何でもない好みで動かされていることもある。これはずっと秘密のままだろう。語るようなことではないためだ。
了
2013年7月22日