小説 川崎サイト

 

澄んだ心

川崎ゆきお


 気持ちが落ち着き、心に波が立たなくなるときがある。このときは意外と危険だ。物事がクリアに見えるのだが、澄みすぎている。やはり濁りがないと、逆に落ち着かない。
「悟ったんじゃないのかね」
「そうじゃないけど、あの心境は何だったのかと思う」
「何かが落ちたような感じかね」
「それに近いですが、それは一瞬で、すぐに戻ります。その澄んだ状態がしばらく続いたのですよ。まるで聖人になったような気分でした。物事がすごくよく分かる」
「何か薬でも飲んだのかね」
「いえ、飲んでません」
「しかし、目から鱗が落ち、心も澄み、物事がクリアに見える。いいじゃないか。それで」
「多少の濁りは必要ですよ。汚れや雑菌は」
「どうして」
「だって、そんな状態、長くは続かないでしょ。だから安心して、その状態を続けるのが怖くなったのです」
「そうか、私はそんな心が澄んだ状態になったことはないからよく分からんが……たとえ錯覚でもな」
「雑念も必要なんですよ。最初から答えが見えていてはつまらないでしょ。色々とウロウロしながら、やっと見つけたりするところに醍醐味があるんですよ」
「じゃ、正解が出ているのに、不満なのかな」
「出てしまうと、意外と寂しいですよ。それに、驚きもない。発見もない。すんなりと出てしまいますとね」
「それで、今はもう醒めたのかね」
「はい、その心境から抜け出せました。やっといつもの自分に戻れました」
「澄んだ心ではない状態が、自分なのかね」
「そうじゃないですが、それがいつもの状態でしたから、それに慣れていたんでしょうねえ」
「じゃ、どうして、そんな心境になれたんだね」
「それがよく分かりません。ある日、ストンと何かが落ちたように」
「それが悟りだとすれば、何もしなくても悟れるものだ」
「だから、大したことじゃないでしょうねえ」
「それで、今の精神状態の方がいいと」
「はい、いいです」
「雑念ばかりで、曇った心で物事を見ていてもかね」
「その方が、楽しみが多いですよ。苦しみもありますが」
「ほほう」
「きっと慣れなんでしょうねえ」
「慣れの問題か」
「はい」
 
   了


2013年7月25日

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