小説 川崎サイト

 

井の中の蛙

川崎ゆきお


 増田はとあるグループに参加し、そのリーダーから「君は井の中の蛙、大海を知らずだ」と言われた。
 増田はそれを根に持った。なぜなら蛙だと言われたからだ。自分は蛙ではない。それは、例え話なので、何も増田のことを蛙だとリーダーは言っていない。それは分かっているのだが、蛙がどうも気に入らない。井の中の人魚なら何の問題もない。金魚でもまだ我慢出来る。蛙が駄目なのだ。蛙が。
 そして井の中の蛙について考えてみた。井戸の中の蛙だろう。井戸の中が世界の全てで、非常に狭い範囲でしか、物事を見ていない意だろう。この言葉はよく使われ、耳にするので、増田も知っている。知っているだけによく流通し、あのリーダーも分かりやすいフレーズとして選んだに違いない。
 しかし、蛙が井戸の中だけで暮らせるものだろうか。その蛙には仲間がいるのだろうか。一匹だけだと子孫も残せない。その井戸は何処にあるのだろうか。もし古い時代の話なら、野井戸だろうか。
 井の中の蛙は最初からそこにいたのだろうか。それならオタマジャクシの頃もおり、もっと言えば卵の時代から、さらに言えば親もその井戸にいたに違いない。狭い井戸の中で、多くの蛙が果たして生きていけるのだろうか。水はあるが餌はどうするのだろうか。
 そうではなく、この蛙は落ちたのかもしれない。野井戸の底に。もし、はい上がれるものなら、外に出るはずだ。しかし、その井戸が気に入ったのなら別で、さらにそこで快適に暮らせるのなら、出ていかないかもしれない。その井戸が海辺にあれば、大海は知っているが、あえて井戸の底をお気に入りの場としているのかもしれない。そうなると「井の中の蛙、大海も知ってる」となる。
 野井戸とは別に肥溜めがある。そこにいる蛙を「ババガエル」と呼んでいた。それよりも井戸の方がいい。実際には肥溜めのほうが自由度が高いのではないかと思える。深くはなく、あふれていることもあるので出たり入ったり出来る。
 さて、本題はそんな臭い話ではない。リーダーから「世間知らず」と言われたのだろう。すると、リーダーは「世間知ってる」となる。
 そして、そのリーダーは、どの程度世間を知っているのだろうか。きっと増田よりもよく知っているに違いない。だから、このグループに参加し、いろいろと話を聞きたかったのだ。
「もしかすると」と、増田は考えた。思い当たることがある。それは増田の態度が大きかったことだ。何かよく物事を知っているような、でかい態度で接した。これが井戸や蛙を引き出したようだ。
「しかし蛙呼ばわりはない」これで、増田はカチンときたのだ。
 増田は蛙が嫌いなわけでも好きでもない。最近見かけないので、どうしているのだろうかと思う程度だ。
 しかし、その寄り合いで、蛙呼ばわりされた瞬間、増田は蛙になった。
 これがやはりどうも気に入らない。
 今度、その集まりに行ったとき、増田は井の中の蛙状態で接することになる。これは避けたい。蛇の方がまだましだ。
 結局増田は行かないことにした。しかし、その後長く、蛙のダメージが残った。
 
   了


2013年8月28日

小説 川崎サイト