小説 川崎サイト

 

見知った人

川崎ゆきお


 三村は殆ど人と接触しないで暮らしているのだが、それなりに知っている人達がいる。それは見知っている程度で、交流はない。それを言い出すと、かなりの人数を知っていることになる。テレビでよく見かける人などを含めると、膨大な数になる。これは知っているとは言わないだろう。見知っている程度だ。見たことがある程度だ。ただ、同じ人物を何度も見ていると、何となく知っている人のように思えてくるらしい。
 テレビもそうだがネットでもそうだ。そして、一番気になるのはリアルで見知っている人達だ。
 つまり、三村は交流関係が少ないので、ちょっと顔を知っているだけの人も加えてしまうようだ。
 たとえば、いつもの店で見かける客。これは店の人でもいいのだが、やり取りがあるため、除外している。そうではなく、全く接触がない人に注目する。
 いつも通る道で合う人もそうだ。視線も合わさないし、当然挨拶もしない。というより無理だろう。なぜなら知らない人なのだから。
 何ヶ月も毎日のように出合う人なら、そのうち「よくお見かけしますねえ」となり、会話になるかもしれない。しかしその瞬間関係が崩れる。
 つまり、三村は見ているだけでいいのだ。
 これは何だろうかと考えた。挨拶する関係になると面倒なのだ。つまり、一度挨拶を交わす関係になると、次に合ったとき、また挨拶をしないといけない。これはこれでいいのだが、親密度が増えすぎる。それは悪いことではないのだが、邪魔くさい。
 交流はしないが、いつも気にかけている。あの人は今日、派手目の上着を着ているとか、今日の表情は厳しそうだ……とか。
 これは相手側からキャラを作らせないで、こちらから作ることになる。これが自由でいいのだ。そして、興味をなくすと、もう見なくてもよい。
 三村は人との交流は少ないが、その分、この見知っている人々を多く持っている。それらの人達、本当はどういう人なのかは分からないし、どんな意見の持ち主なのかも知らないが、その外見や仕草で何となく推測する。下手に喋らせない方がいいのだ。
 三村は豊かな人間関係の中にいるわけではない。だが、三村流の関係の方が、その人らしさがよく見えたりする。相手が三村を意識していないためだろう。
 
   了



2013年9月19日

小説 川崎サイト