小説 川崎サイト

 

神眼

川崎ゆきお


 神社の鳥居前に川があり、石橋がある。その欄干に老人が腰掛け、煙草を吸っている。
 そこに行者風の男が近付き、声をかけた。
「その神社には神はいない」
 老人は下を向いたまま聞いている。猫背なのでそのように見えるのだろう。
「ここの本殿に居座っているのは野良犬の妖怪だ。この周辺に昔いた老犬らしい。もう何十年も前のことだろう」
「そうですなあ、最近野良犬など見かけませんからなあ」
「だから、昔に入り込んだのだろう」
「そのまま居座っておるのですかな」
「だから、この神社に参拝しても、妖怪犬を拝んでいるだけのこと」
「犬の神様なら犬神様じゃな」
「それとは違う」
「筋ものではないと。で、どんな犬ですかな」
「やんちゃな赤犬だ。狂犬ではないがな。年取った賢い犬だ。ただ悪戯が好きな犬と見た」
「そんなものが、見えるのですかな」
「わしには神眼がある」
「心眼?」
「神の眼と書く」
「それはそれは、奇異な」
「そこに小さな祠があるだろう」
 狭い通りが見える。その先に小さな祠がある。中に漬け物石のような石地蔵が祭られている。
「あそこにはゴキブリがおる。地蔵菩薩などいない」
「よく分かりますなあ」
「これが、神眼の力」
「では、神や仏は何処におられるのですかな」
「そのようなものはいない」
「ほう、でもあなた神眼をお持ちだ。それは神様のオメメのことでしょ」
 老人は塞がっていた瞼を少しだけ開け、行者の目を見る。
 行者は自分の目に針が刺さったように感じた。
「神がいないのに、神眼ですかな」老人は目を閉じ、ぼそぼそ声で言う。
「神とは」行者は聖なる言葉を発するときによくあるような、厳かな作り声を出した。
「はい、神とは?」
「心の中におわす」
 それを聞いた老人は立ち上がり、立ち去ろうとした。
「神は心の中におわす」
 行者は老人の背中に声をかけるが、反応がない。
「これが、神眼の御札」
 行者は懐から目玉の画かれた御札を出し、老人の前に出る。
「おひとつ、いかが」
「安心しました」
「なんと」
「御札売りでしたか」
「いやいや、この御札を持てば、何があなたに幸いをもたらすかが見えるようになります」
「はいはい」
 老人はその値段を聞いたが、結構安い。それにも安心したようだ。
「あなたは、この神社の方か」と行者が問う。
「あなたと似たようなものじゃ。それよりも、人生は短い。あらぬ事をしておるうちに過ぎ去りますぞ。その心眼で、あなたも幸せを見付けなされ」
「何者ですか、名を聞きたい」
 老人は素性を明かさず立ち去った。
 妖怪を研究しているこの老人、妖怪博士と呼ばれているが、名乗っても誰も知らないだろう。
 
   了
 

 


2013年9月24日

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