十年ひと昔
川崎ゆきお
少し古い時代の本を読んでいると、感覚のずれを感じる。そんな大昔の本でなくても、十年を越えると、そうなりやすい。「十年ひと昔」と昔の人は言ったが、基本的にはそんな感じだろうか。時代のテンポが早いため、三年ひと昔になっているかもしれないが、その三年の変化に気付かない人もいるはずだ。このあたりは自分と関係のある事柄で、時代を感じるのだろう。
さて、十年ほど前の本を読んでいると、その当時の感覚がちりばめられている。十年前を覚えている人なら、当時の風潮も知っているので、その内容も、その背景から出ていることが何となく分かる。だから、そういう時代もあったと懐かしがったりする。十年ひと昔なので、昔の話となり、懐かしんでもいいわけだ。
ただ、十年前や、それ以前の感覚のまま来ている人もいる。何となく受け入れたくないので、その感覚と共鳴したくないのだろう。
また、十年前の感覚では捕らえ切れない目新しい事象などがある。それを捕らえるための感覚を新感覚と言うのかもしれないが、それもすぐに旧感覚になる。
そして、今風な感覚は徐々に浸透していくようだ。気が付くと、そういう感覚になっていた、とかだ。これは滑らかでよい。ただ人により、やっと二十年前の感覚に辿り着いた人と、三年前の感覚まで同調出来た人もいるはずだ。これは個人差だろう。
また、ある事柄は最新で、ある事柄に関しては百年前の人もいる。そういう人は百年前の本を読んでも、違和感がなかったりする。ただ、百歳以上生きていないと、百年前を思い出しようはないが。
現代訳というのがある。言葉だけではなく、感覚を今風に訳したタイプもある。古い本には死語が多く出てくるので、言葉の背景が分からなくなっているため、今風な言葉で、その言葉の周辺からニュアンスを伝え直すのだろう。
これは、個人的にもやっているはずだ。新語や旬の言葉を昔の言葉に置き換える。逆に古い言葉を今の言葉に置き換える。
それらは何となくの感覚でいい。だいたいこのあたりだろうというような。なぜなら感覚は曖昧なもので、感じ方は人により違うためだ。ただ共通する感覚もある。これを時代感覚と言うのだろうが、ある時代を無視し、その感覚も無視して過ごした人もいるだろう。
心の中身というのは古代からそれほど変わっていないように思われる。基本的に持っているライブラリーのようなものだ。それは少ないが、その発展型や、組み合わせや、これとこれとの間、などというふうに、何とか見当をつけるのだろう。
子供は子供なりに見当をつけ、年寄りは年寄りなりに当てはめていく。言葉少なく、物事をあまりよく知らない人でも、当てはまるものがあるはずだ。
了
2013年10月6日