小説 川崎サイト

 

四割引き

川崎ゆきお


 吉田が喫茶店のカウンター席で電子書籍専用機で本を読んでいると青年が話しかけてきた。
「いいですねえ、そのガジェット」
「ああ」
「電書ですか」
「そうです」
「スマホじゃなく、専用端末ですか。なるほど。滅多に見かけません。初めて外で見ましたよ。使っている人がいるんだ」
「大きな文字じゃないと、もう本は読めないのでね。これにしました」
「買いに行かれたのですか」
「ネットでです」
「ああそうなんだ」
「最近都心部へ出なくなりました。買い物はネットで出来ますからねえ」
「そうですねえ。僕もほとんどネットですよ」
「昔はねえ、朝買いに行って夜までかかりましたよ」
「すごい買い物ですねえ。いっぱい買ったのですか」
「カメラやパソコン、その周辺機材などです。プリンターとかね」
「今、全部ネットで売ってますよね。でも一日かかるとはすごいですねえ。どんなものを買いに行かれたのですか」
「カメラとノートパソコンです」
「二つだけですか」
「いや、一つです。どちらが先かは、行ってみてから決めることにしました」
「でも、朝から晩まででしょ」
「考え込みました」
「決めていなかったのですか」
「前の日、徹夜で熟考しました。だから、決めていました。しかし、行ってみると特価品がありましてねえ。四割引きなんですよ。これは何だろうと思いましてね。調べたのですが、この店にはカタログがない」
「ネットで調べたら早いですよ」
「モバイルパソコンはまだ持っていませんでした。それを買いに行ったのですよ」
「四割引きのノートパソコンは、安いですよ」
「そうでしょ。一応メーカーや型番は何となく暗記していましたが、その機種が何物であるのかまでは分かりませんでした」
「店の人に聞けばいいのに」
「それをすると、結局買ってしまいます。だから、それは避けました」
「それで買わなかったのですか」
「私が家を出るとき決めていたパソコンよりも高性能で、しかも安いことが分かりましたが、これが逆に危ない。それで、他の家電店で、そのカタログがあるかどうかを見に行きました。そして、総合カタログがありましたので、それを喫茶店で読みました」
「ありましたか、その型番」
「ありました。家で探しているときは、無視していた機種です。なぜなら高いからです。それが四割引きなら、無視できません。こちらを買った方が得なんですからね」
「じゃ、ためらう必要ないじゃないですか」
「そうなんだが、そこで急にデジカメが来ました」
「え」
「どちらを先に買ってもいいのです。いきなり来た安いパソコンは、もう少し調べる必要があります。なぜ四割引きになっているのか、それにはきっと訳があります。展示品特価となっていましたので、その一台だけが安いのです。つまり、誰かが買えば、もうなくなる。しかし、私には調べる時間がない。物は分かっているのです。総合カタログで。だが、なぜ四割引きなのかが分からない。しかもそのパソコン、結構奥の方の目立たないところにある。朝一番に行ったのですが、喫茶店で考えている間に、誰かが持ち帰っている可能性もあります。だから、少しパニックになりました。こんなところで、もたもたしている場合ではないと。こういうのは見たときに買えが原則なんです。出直して行ってみると消えていることが多い。そういうパターンを避けるため、カメラに切り替えたのです。忘れようと」
「買えばよかったのに」
「物は今のカタログに載っているので、古いものではありません。だから、四割引きの意味が分からない。それに家を出たときの作戦と違ってしまう。しかし、作戦よりも良い物を持ち帰ったという喜びも味わいたい」
「うーん、何とも言えませんねえ」
「そして、もう一度その家電店へ行きました。家で決めたパソコンの前を通り、その奥に行くと、四割引きのそれがまだありました。店員は近くにいません。ネット屋さんがうろうろしていますが、この人に聞いても分からないですからね」
「ネット同時契約なら、四割引きって意味じゃないのですか」
「違います。そのパソコンの値札にも、その近くにも書かれていません。それに四割引きにはならないでしょう。何万円引き程度ですからね」
「はい」
「私は、またその四割引きパソコンに引きつられました。やはり買うべきだと。そして、店員を呼びました」
「買ったのですね」
「すみませーんと、かなり大きな声を二度出したのですが、店員は気付きませんでした。これはお知らせだと思いました」
「何のお知らせですか」
「何かの啓示です。邪魔をしているのかもしれません。店員を呼ぶなと」
「ほう、そこに来ますか」
「一応私は起こすべきアクションは起こしました。しかし通じなかったのですから、諦めて退却しました」
「商品に不安があったのですね」
「ありません。でもなぜ安いのかが分からないので、それに対する不安でしょうねえ」
「昼前になったので、ご飯を食べました。それで腹が一杯になりました。カウンター席だけの店で、ビジネスランチを食べたのです。トンカツでしたが、これが脂っこい脂っこい。ほとんどコロモですよ。それで、気分が悪くなりました。足の高い不安定な椅子なのでフラフラしました。そしてもう思考能力もありません。それで、喫茶店でブラックコーヒーを飲みました。すっきりさせようと。しかし、このコーヒーがまた癖がありましてねえ。胸が悪くなりました。濃い濃い。やはり砂糖は入れるべきだ。またはアイスにすべきだった」
「はいはい」
「長い話ですみません」
「いや、暇なので、お聞きしますよ。時間待ちで、ここにいるだけですので」
「はい、じゃあ、続けます」
「結局どうなったのです。買ったのですか」
「胸が悪くなったので、風にでも当たろうと、喫茶店を出て、表通りを歩きました。銀杏並木が黄色かったのを今でも覚えています。風に吹かれて少しは楽になりました。それで、今度はカメラを見に行くことにしました。こちらは、今日はまだ手垢が付いていませんからね」
「その展示品パソコン、誰かが先に買うことを心配しませんでしたか」
「しました。しかし、それもまた運命」
「はい」
「それにパソコンは闇になりましたから……」
「え、闇って何ですか」
「見えなくなったというか、見晴らしが悪くなったので、中断し、デジカメ売り場へ行ったのです。パソコンと同じ店です。しかし、驚くじゃありませんか」
「どうかしましたか」
「同じことが起こっている。共時性ですなあ」
「カメラも四割引きで?」
「そうなんです、あなた。同じパターンでした。このカメラもマークしていなかったので、急に言われても、どんなカメラなのかは判断出来ません。知らないカメラではないのですが、細かく調べたわけではありませんし、購入へ至るドラマも組み立ていませんでした。また、家を出るとき欲しいと思っていたものではありません。しかし四割引きで生き返りますよ。ゾンビでも」
「結局それも買えなかったのでしょ」
「私が狙っていたものよりも高いが、性能はいい。少し古いですがね。さて、それでまた喫茶店です」
「はい」
「この付近に喫茶店は多いのですよ。カタログなんかとにらめっこして、固まっている客が多くいます。私もその一人になりました」
「大変ですねえ」
「見たら買うの原則をまた外しました。この原則を実行した場合、お金はいくらあっても足りませんが、いいなあと思えば、その場で買う。早く勝負をする。これがいいのです。後腐れありません」
「でも買えなかった」
「そうです。それで、あの店での四割引きは妥当なものかを調べに、別の店へ行きました。まずは情報収集です」
「はい」
「三店ほど廻りましたが、四割引きはなかった。もっとも、展示品特価は、あの店だけなので」
「客がいじって壊したんじゃないのですか」
「その可能性もあります。その証拠に……」
「はい」
「展示品とは言いながら、電源のコードはありません。つまり実動品じゃない。その横のカメラは動きました。これは怪しいじゃありませんか」
「心配事が増えますねえ」
「まあ、メーカー保証もあるので、問題はないと思いますが、何処が悪いのかまでは、しばらく使わないと分からないでしょうなあ。これは不安です」
 青年は徐々に、この話に飽きてきた。最後まで聞いても、カタルシスがないと感じたのだ。
 吉田も徐々に語りのトーンが落ちてきた。このあたりが潮時だろう。
「それで、途中を省略しますとね、結局またパソコンが気になって、そちらへ向かいました。しかしやはり買えない。それでまたデジカメへ行きました。だが、やはり買えない。そしてまた喫茶店に入ったり、他の店を冷やかしたりしました。それでもう夜になってしまい、何も持ち帰らないで帰るのはしゃくなので、何でもいから買おうと思ったのですよ」
 青年は、もう興味をなくしたようだ。何を持ち帰ったのかを知る気もなくしていた。
「今はネットで部屋の中で、それをやっています。朝決心し、そのとき買えばいいのに、なかなか買い物籠まで行けなかったり、行っても、決定のボタンが押せなかったりで、夜までかかります。それでも駄目な日もありましてねえ」
 青年はもう聞いていない。スマホを取り出し、何かを見ている。
「この電子書籍専用機も、最後のボタンを押すまで二週間かかりましたよ」
「失礼」青年は言うなり立ち上がった。待ち時間を消化したようだ。
 吉田は久しぶりに沢山喋ったので、喉を枯らしたようで、お冷やのお代わりを頼んだ。
 だが、話を最期までしていない。落ちを言っていない。それで落ち着かない。吉田はマスターを見る。
 そして、このマスターに向かって喋り出した。
「それでね、結局何も買わないで、帰ったのです」
 マスターは知らぬ顔のままだ。
 
   了



2013年11月9日

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