小説 川崎サイト

 

高等遊民

川崎ゆきお


 木下は友人の大宇陀が引っ越したので、そこを訪ねてみた。
 大宇陀との関係はさほど親密ではなく、引っ越すことなど聞かされていない。しかし、聞いても手伝いに行くほどのものではない。
 大宇陀の引っ越し先は郊外、もう田舎だと言ってもいい、そこに建つ比較的新しい空き家だ。戦前からあるようなものではない。一軒家で、坂を下った谷沿いにある。緑が多いのだが、湿気ている。そして暗い。日差しが山で遮られているのだろう。全く日が差さないわけではないが、日照時間は短いものと思われる。
「辺鄙なところに越したねえ」大宇陀の顔を見るなり、木下が言う。
「ああ、どうせ街には滅多に出ないから」
「最近どうしてるの、飲み会にも来ないし」
「もう住んでる世界が違うんだ」
「え、どういうことかな」
 二人は美学関係のゼミで一緒だった。
「明治から大正にかけて住んでいる」
「え、この家、そんなに古くないでしょ」
「いや、ここじゃなく、頭の中の世界だよ」
「変なところに入り込んだの?」
「まあ、そうなんだけど、明治や大正の本を読んでいると、その世界にはまってしまった」
「ああ、読書の話か」
「精神もその影響を受け、どっぷり浸かっている」
「で、どんな感じになるの」
「時代劇でもないし、現代劇でもない。そこがいいんだ」
「大正時代って、もう今とそれほど変わらないと思うけど」
「そうだね、僕のお爺さんが生まれた時代だ」
「それで、どうして、ここに引っ越したの」
「だから市街地で暮らしていると、その風景に惑わされるから」
「コンビニとかATMとかかい」
「まあ、そうなんだ。便利になってるけど、情緒がない。だから、見たくないんだ。ただ、利用するけどね。頑固に嫌っているわけじゃなく、あまり見たくない程度。これは雰囲気を壊すから」
「不自由じゃない」
「いや、昔の生活を再現させようとしているわけじゃないんだ。雰囲気だよ、ムードだよ。それを維持したいから」
「それは、一つのファッションかなあ」と、木下は言いながら大宇陀の服装を見るが、以前と変わっていない。ただ、椅子と机がなく、べた座りの文机だ。分厚い座布団の上に大宇陀は座っている。それを正面から見ると、落語や講談でも始まりそうな雰囲気だ。
「あのデスクはどうしたの」
「ああ、あれはスチールで重いから、持ってこなかった」
「そうか、言ってくれれば、僕が引き取ったのに」
「畳の間で座ると、視線が低くなる。天井が高く感じる。これがいいんだ。これが」
「それで、ここでずっと本を読んで暮らしてるの」
「まあ、生活費がなくなりかけるまでね」
「それって、何かなあ」
 美学仲間なので、そちらに関係付けて木下は考えてしまう。
「ただの休憩だよ」
「休憩」
「少し働きすぎたからねえ。一二年は休まないと」
「あまり忙しそうにバリバリ働いている姿、見た記憶はないけど」
「僕にとってはハードスケジュールだったのさ」
 木下は、この大宇陀の様子がよく分からない。神経を病んでいるようにも思えない。いつものペースで喋っている。一人でじっとしていたいのかもしれない。それで、興味を失った。と言うより、訪問は邪魔だったのかもしれない。
 木下は久しぶりに茶柱のあるお茶をごちそうになり、それを飲み干したが、茶の茎が歯に挟まってしまう。
「じゃ、このへんで帰るよ」
「そうか、またおいでよ。招待はしないけど」
「いいの?」
「漱石の吾輩は猫であるに出て来るような、高等遊民が遊びに来る……っていうのがいいんだ。木下君は、そのキャラにふさわしい」
「ああ、はいはい」
 この大宇陀は自分の世界観を持っている。それは薄っぺらいものであっても、悪い感じではない。
 木下は谷を上り、明るい通りに出た。振り返ると、奈落の底にある家のように思えたが、住めばまた別なのだろう。
 
   了




2013年11月12日

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