小説 川崎サイト

 

心配貯金

川崎ゆきお


 ここを破られると対処しようのない事象がある。その程度ならまだ行ける場合はいい。まだもう一段あり、それで何とかしのげることもある。
 一段目を破られると、二段目のない事象が結構ある。替えが効かず、取り返しのつかないことに……と竹田は考えた。これはただの過剰な神経の使い方に近い。心配し出すときりがない。
 日常の中にはいくらでもこの一枚、一段だけの事象が転がっている。なくなっても壊れてもかまわないものなら、清々するのかもしれない。ただ、それが消えると、もう二度と同じものや代わるものがないとなると、少しは残念な気もする。いい意味での残念さもあるが。
 何かが消えると、それに代わるものではないが、似たようなものが出てくる。代用品ではないが、別の事象を取り込めるスペースが空くのだろうか。
 消えると清々したり、残念に思うのは竹田の都合による。興味をなくしたものは残念とは思わない。逆の場合は残念に思う。この都合は竹田にかかってくる。それだけに普遍性はないのだろう。その個人がどう思っているのかだ。
 この個人が思うことはよく分からない。何らかの都合かもしれないし、その都合はどうして出来たのかも、分かりにくい。錯覚や思い違いでも、それは動いているのだから。
 ただ竹田は、なくした事象に対して起こる感情は勝手に出てしまうため、感情だけは何ともならない。そして、その感情がどうして出るのかについては竹田固有の事情に関わってしまう。
 一段目が破られても何とも思わない。つまり感情的な波は立たない事象もある。これは他の人にとっては大波になることもあるのだから、やはり個人的なことだ。その個人を組み立てているものの構造と関わるのだろう。
 それがどうやって出来たのかは分かりにくい。あるところはかなり作為的に作り込んだこともあるだろうし、あるところは自然にそうなってしまったものもある。
 あるものが壊れた場合、その修復にものすごく時間がかかることが分かっている場合、感情の波も高いだろう。その後のことを想像するからだ。面倒なことになった。これでまた時間がとられてしまう。出費も必要だ。などと瞬時に思うのだ。しかし、この修復作業が楽しいこともある。
 一段壊れると、取り返しのつかない事象。日常の中にあるそれらのことを考えると、竹田は怖くなってきたが、これはきりのない話だ。
 そして現実は心配していない事象で起こることが多い。それを考えると、心配するだけ損なのだが、心配癖は悪いことではない。次を予測しながら進めて行くためだ。
 そして竹田が得た結論は、普段はものすごく心配し、いざ現場では「なるようになる」とやってしまうことだ。心配しすぎて、心配に慣れるためだろうか。心配貯金の貯めすぎで、もう入らないまで心配しきるのがいいのかもしれない。
 
   了

 


2013年11月18日

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