小説 川崎サイト

 

エアーポケット

川崎ゆきお


「眼鏡がない」
 ある錯覚のようなものを、この世の常識外のことと関連付けて考えてしまう場合がある。むしろ錯覚の違和感が外界を作り出すのかもしれない。その元になる現象だろうか。
 作田は眼鏡を忘れた。老眼鏡だ。しかし、忘れるはずがない。眼鏡は鞄の中に入っているはずなのだから。
 眼鏡を探し出したのは喫茶店に入り、おしぼりで顔を拭き、ノートパソコンを開き、眼鏡を鞄から取り出そうとしたときだ。
「ない」
 そんなはずはないのだ。(ないということがない)のだ。しかし、(ないということがある)ことになった。
 そんなことがあるはずはないと思うのは、その前に入った喫茶店で眼鏡をかけてノートパソコンを使い、出るときにパソコンや眼鏡は鞄の中に入れたからだ。
 煙草とライターは上着のポケットに入れた。眼鏡は分厚いケースに入っており、ポケットには入らないので、いつも鞄の中に入れている。
 そして部屋に戻り、他の用事をして過ごし、飽きてきたので、また喫茶店へ行った。
 部屋で使う眼鏡があり、外で使う眼鏡は鞄の中に入ったままのはず。部屋の中で鞄からノートパソコンを取り出したとき、一緒に飛び出たのかもしれない。
 または、喫茶店から出るとき、眼鏡を鞄に入れ忘れたのだろうか。しかし、これは習慣になっており、意識しなくても、かけていた眼鏡を外し、ケースに入れ、そのまま鞄の中に入れる。眼鏡は席を立つ瞬間までかけている。
 鞄の中に入れる順番はノートパソコンが先で、次は眼鏡。前者の行為中、まだ眼鏡をかけている。そういうことを意識した覚えはないが、自然な流れで、いつの間にかそうなっている。だから、鞄の中ではノートパソコンの上に眼鏡が乗る。その鞄は底の幅が広い。
 ノートパソコンが横になっているか縦になっているのかは、そのときの偶然で決まる。
 だから部屋に戻ったときにノートパソコンの上になっていた眼鏡が飛び出たのか……。鞄を置く場所は決まっており、その周辺は結構散らかっている。だから、眼鏡ケースの飛び出しに気付かなかった可能性もある。だが、今までそんなことは一度もなかった。ただ、それは眼鏡に限っての話だ。
 作田は眼鏡なしで喫茶店で考えた。帰れば鞄を置いた周辺に眼鏡ケースが落ちている映像がありありと浮かんだが、そんな絵はない。今までそんな映像を見たことがない。だから、頭の中で合成した絵だ。
 ただ、鮮明ではない。ほんの一瞬の映像で、これは目で見たわけではない。異境、異界の映像も、こんなものかもしれない。
 そういうことを考えながら喫茶店で時間を持たすしかない。ノートパソコンを開いても、眼鏡がないと見えない。他にすることはない。コーヒーを飲み、煙草を吸うだけのアクションになる。まあ、休憩だと思えばいいのだが、ノートパソコンを開いて仕事の段取りを決めるのが目的で喫茶店に来ている。その目的が果たせない。喫茶店代が損だ。
 作田は万が一と思いながら、鞄の中を底まで調べるが、出てこない。鞄には様々なものが突っ込まれており、沈殿物がある。持ち出す必要もないような書類や封筒などだ。底になるほど使っていないもの、最近取り出した形跡のないものとなる。眼鏡ケースは大きいし、常に出し入れしている。だから探さなくても見えるはずだ。
 さらに上着とズボンを調べる。ポケットには入らない大きさなので、入れた覚えはないが、入らないことはない。何らかの突発的なことで、眼鏡ケースをポケットにねじ込んだ可能性も否定できない。
 しかし、ない。
「ポケット」
 作田はそれほど意識したわけでも、すごい思い付きではないが、ポケットがきっかけになったのか、鞄のサブポケットを開けてみた。すると眼鏡ケースが狭いところにいた。
「エアーポケットだ」と頭の中で呟き、作田は微笑んだ。この表情は見つかった嬉しさから出た。
 その鞄のメインポケットとサブポケットの入り口は似たような形で、しかも近い位置にある。メインのファスナーは長く、サブは短いだけの違いだ。それでよく間違える。
 作田にとり、そのサブポケットは異界だったのだ。サブポケットが異界なのではない。間違えただけの話だが、存在しないこの世にないポケットに入れたような錯覚だ。
 作田は、この鞄に眼鏡を入れるとき、サブポケットに入れる習慣はない。そういうことが異界を生むのかもしれない。
 
   了


2013年11月19日

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