小説 川崎サイト

 

地獄の辻

川崎ゆきお


「何を見ておられるのですかな」
 高橋は老人の声で振り返った。そこに小さなお婆さんが立っている。お爺さんではないと思う。しかし、よく分からない。
「石を見ていました」
 そこは道が分岐するY字路。その分岐点にある石を高橋は見ていた。
 石は横長で大きい。歌碑のように何やら文字が刻まれた跡があるが、全く読めない。
「それは道しるべじゃよ」
「ああ、道標なんですか」
 高橋が歩いて来た道は狭く。そこから二つに分かれているのだが、それらの道もまた狭い。昔の道だろう。
「何て書かれてあったのですか?」
 小さな老婆は右はH市、左はM市と答える。当然、その道しるべが立った時代には、そんな市も地名もない。
「ここは地獄の辻でな」
 来たなあ、と高橋は思った。怪しいものが向こうから出てきたのだから、望んでいたものを手に入ったようなもの。高橋にはそういう趣味があり、今日もその種のものを求めて見知らぬ郊外の町を歩いていた。
 石はY字路の尖った三角箇所にあり、その後ろに太い木がある。その下にお堂もあるが、何が祭られているのかは外からは見えない。こういう場所には地蔵さんでもあるのだろう。屋根付きなので、豪華なものだ。と高橋は思ったので、それを聞いてみた。
「閻魔堂じゃよ」
「エンマさんですね。地獄の」
「そうじゃよ。まあ、中に閻魔さんはおらん。この閻魔堂はカラじゃ。何も入ってはおらん」
「どうして、ここが地獄の辻なのですか」
「ここはのう、村の道じゃのうて、街道じゃ。遠いところまで行けるターミナル駅」
「幹線道路のようなものですね。昔の国道のような」
「右へ行っても左へ行っても大きな町へ出る」
「はい」
「あなたが来られ所は山際じゃろ」
「はい、山沿いの駅から、徒歩で都心部へ戻ろうとしていました。あ、全部歩いてじゃないですよ。K電鉄の駅があるはずですから、そちらまで歩こうと」
「その麓の駅は村じゃった。ここは村はずれ。村から他国へ行く街道が、これじゃ」
「なるほど、昔の交易路のようなものですね」
「交易路?」
「シルクロードのような」
「何かよう分からんが、まあ、大昔からあるような古道じゃ。今は住宅地の中に埋まってしもうたがな」
「では、ここから村人が旅立ったのですね。それがどうして地獄の辻なのですか」
 問いながら高橋は、もう答えを想像していた。それは村から見ると右へ行こうが左へ行こうが、どちらも地獄のようなものだから、きっとそこから出た呼び名だと。
「ここは地獄と通じておるから、地獄の辻じゃ」
「村外の世界は地獄なのですね」
「何がじゃ?」
「だからH市方面もM市方面も地獄だと」
「いいや」
「違うと?」
「ここから下へ行くのじゃよ」
「では道しるべと閻魔堂は無関係なのですか」
「この道しるべが立ったのは江戸時代の初めの頃で、この地方に残っておる最古のものらしいが、閻魔堂はもっと古い」
「それで、もう閻魔堂もカラになり、営業していないわけですね」
「そうじゃな、昔は閻魔さんの木像があったらしいが、盗まれた」
「どうやって、地獄へ行くのでしょうか。閻魔堂の下に穴があり、そこから地底へ降りて行くとか」
「さあ、それは聞いておらんがな。地獄谷のようなものじゃろ。地獄に繋がっておるわけじゃない。ただ……」
「何ですか」
「閻魔堂で一晩座っておると、地獄へ行って戻ってこれるらしい」
「シャトルバスのようなものですねえ」
「何じゃ、それは」
「セルフものかもしれませんねえ。自分で罪悪を告白し、一人で閻魔裁判会をやるような。その時間が地獄巡りのような……。僕は深夜バスに乗って、眠れないので、昔のことを思い出し、苦しんだことがあります」
「あなたは?」
「え、ただの通りすがりの暇人ですよ」
「いや、私より想像力が豊かじゃ。物語を作っていかれる」
「お婆さんは?」
「私はガイドボランティアでな、ここを見に来る人がいると、すぐに飛び出し、説明するんじゃよ。近所の人は飛び出し婆と呼んでおる」
「あ、それはご苦労様です。車に轢かれないように注意してください」
「この説明、満足していただけましたかな」
「はい、おかげで、一人で見ているよりも、色々なことが分かって良かったです」
「はいはい、じゃ、気をつけて行きなされ」
「お婆さん」
「何かな」
「いつもそういう喋り方なのですか」
「ああ、これは演技ですがな」
「はい、ご苦労様です」
 
   了



2013年11月30日

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