キッチンに立つ
川崎ゆきお
「感情が入らないと何も出来ないですなあ」
「気を入れてやるということですか」
「ああ、それに近いが、気持ちが入っていないと動きにくいねえ」
「たとえば?」
「ご飯を作るにしてもだ。私は自炊でね。自分で一から作る。野菜の栽培から始めるわけじゃないよ。売られているものを適当に盛り合わせたり煮炊きしたり、焼いたり、炒めたりする。これだけでも暇は潰れる。しかしだ……」
「はい」
「まだ、聞くかね」
「はい、暇なので」
「そうだろうなあ、細かい話だから」
「続けて下さい」
「もっとドラマチックな話ならいいんだけどね、こういう話をやったからといって、役立つわけでもないし、お互いの関係が変わるほどのことでもない。だから、まあ気楽なことなんだが」
「えーと何のお話しでしたか」
「感情の話だよ。気持ちが入っていないと、動きにくいって話さ」
「それはもうそこで終わっているのではありませんか」
「終わってる?」
「はい」
「どうして?」
「だって、それを聞いただけで、もう分かりますから。やはり気持ちを入れてやらないといけないなあ、というお話しでしょ」
「うん、まあ、そうだ」
「でも、暇なので、続きがあるのなら、聞きます」
「じゃ、お言葉に甘えて続けますよ。冬場はねえ。寒いからキッチンに立つのが嫌なんだ。いつもは炬燵の中にいる。そして時計を見る。食事の一時間前だ。身体を壊して医者へ行っている時期があった」
「病気の話ですか」
「それは補足だ」
「はい」
「一日三回、食後に薬を飲むことになった。間隔が問題だよね。だから、朝昼夕と一定の間隔を置いて飲む癖が付いた。もう薬は飲んでいませんがね。食事時間がそれで固定したのですよ。その計算でいけば、次の夕食を食べるには、一時間前から用意をしないといけない。米を洗い、ご飯が炊け、保温ランプが付くまで一時間かかる。だから、そろそろ炬燵から出ないといけない。しかし出たくない。ここでサボると外食か弁当になる。ご飯がないからね。パンは駄目だ。だから買い置きはない」
「パンやうどんでは駄目なのですか」
「医者から小麦粉系は控えるように言われた」
「小麦も米も、似たようなものだと思いますが」
「そうなんだがね、しかし私はご飯が好きだ。パンやうどんよりもね」
「それで……?」
「ああ、本題ねえ。出るときだよ。炬燵から。そのとき、気が入っていないと動けない。出られない。感情がねえ、出るな出るなと言ってる。私もそれに賛同する。しかし、ここで出ないと、あとが面倒になる。では夕食はどうするかで、一時間後決めないといけない。この場合外出になる。買い置きがないからね。だから、今、このときに立ち上がった方が結果的には楽だ」
「どちらも似たようなものだと思いますが」
「似ている。どちらにしても一時間後、何かを食べることになる。最終的には食べる。これはもう感情や気分ではなく、腹が減っている事実の方が大きくなる。この場合はねえ、感情がどうの、気持ちの入り方がどうのじゃなく、餌に食いつく金魚のようなもの。魚を見た猫のようなもの、一直線だ。だから、私も一時間後、おそらく一直線になると思う。しかし、今ここでご飯の準備にキッチンへ行けば、慌てなくてもいい。それに外食や弁当は罪悪感がある。ハレの場ならいいのだがね、特別な日ならいいが、普段はいつも通りのものでいい」
「長いです」
「何が」
「お話しが」
「そうか、ここを説明しないと意味がないんだよ」
「はいはい」
「そして私は炬燵の中で、キッチンへ立つことの意味をよーく考えた。自分自身を自分で説得し始めたんだ。怠けないで立つことがどれだけ素晴らしいことなのかをね」
「素晴らしいのですね」
「そうだ、素敵なんだ」
「キッチンへ立つことがですか」
「そうだ。だから、ここで感情を抑えて、気持ちを入れ直すことにした」
「立ち直ろうとしたのですね」
「座っているので、まだ立っておらん」
「はい」
「だから、座り直しだよ。少し背骨を伸ばした」
「はい、適当にどうぞ」
「ここでキッチンへ立つことが、どれだけ良いことかとね」
「善きことですね」
「それで半ば説得出来たような気がし、さあ、立とうと思い立ったとき」
「はい」
「大した食材、つまりおかずだがね、ないんだよ。草とカボチャと、ちくわだけだ。卵もあったかな」
「それが今夜のおかずですね」
「気に入らん」
「はあ?」
「楽しくない。ちくわだろ。メインは」
「はい」
「ちくわがメインだよ君、ちくわを食べたいと思うかね」
「ああ」
「ちくわのために立ち上がろうと思うかね」
「さあ、それは人の好みで」
「違う。ちくわは残していたのではなく、残ったのだよ。ちくわは買ったが、これだっというほど好きじゃない。安いので買った。しかも四本も入っておった。煮物に少し入れる程度。あれは君、小麦や塩分の含有率の高い食べ物でね。魚などどれだけ入っているか。しかも医者から小麦粉を控えるように言われておる。そうじゃなくても、ちくわのレベルは私の中では低い。それをメインに食事をするというのが気に食わん。これでやる気が失せた」
「やはり肉ですねえ」
「そうそう」
「肉の買い置きはなかったのですね」
「うむ」
「それで、どうなりました。キッチンに立ちましたか」
「立ち上がったが、やる気が失せたので、座った」
「はい、駄目でしたか」
「再起動失敗だ」
「それで」
「大相撲中継が終わり、ご飯の時間になった」
「はい」
「牛丼屋へ向かった」
「やりましたねえ」
「たまには掟を破るのもいい」
「そうですよ」
「長い話だった」
「はい、お疲れ様」
「いや、聞いている方が疲れたでしょ」
「牛丼が食べたくなりました」
「私もだよ」
了
2014年2月2日