小説 川崎サイト

 

胸焼け

川崎ゆきお



 老人が食堂街の通路に立っている。大都会のこの場所に来るのは久しぶりのようだ。その近くにトイレがあり、よく人が立っている。空きを待っているのではなく、連れを待っているのだろう。この場合、意味合いが分かるので、不審ではない。
 その老人が立っている場所は狭苦しい通路で、すれ違うとき、肩を横にしないといけないほど。だから、邪魔なのだ。
「どうかしましたか」
 いかにも温和そうな青年が聞く。本当に心配してのことか、邪魔なのでどちらかに寄ってくれと言っているのかは曖昧だが。おそらく両方だろう。
「あったんだがねえ」
「切符ですか」
「いや、食堂だ。何とかグリルと言っていた。若い頃通った店だ」
「この辺りですか」
「ああ、そうだ」
「そこに洋食屋があるでしょ。あれじゃないのですか」
 洋食グルメグリルと看板が出ている。
「場所はそうなんだが」
「だったら、改装したんじゃないのですか」
「メニューを見たが、上等になっている。昔はカウンターだけの小さな定食屋だったんだ」
 青年も中を覗き込む。
「ああ、ここはたまに僕も入りますよ。高いですよ。それで、昼時など、仕方なしに入ります。この店高いわりにはあれですから、すいてることが多いんです」
 別の通行人が来たので、二人は脇に寄る。
「入られたらどうですか。この店でしょ。僕も入りますから」
「じゃ、あなたは、この店に」
「はい、昼ご飯、まだなので」
 二人は洋食グルメグリルに入った。
 店は一人で全てやっていた。
「昔は調理場にもう一人いたんだけどねえ」
「そうなんですか」
 注文をしたあとなので、店員は奥で調理している。
「キャベツが白くてねえ。芯ばかり。細かく切ればいいものを、粗いので、歯が痛かったよ。あの芯ばかりのキャベツが食べたくてねえ」
「そうなんですか」
「それとねえ、硬くて筋のあるトンカツ。ガムのようなものでね。噛んでも噛んでも千切れない。なかなか飲み込めないんだが、急いでいるので、飲み込んだよ。そのためか、胸焼けしてねえ。二時間ほどは仕事も出来なかったよ。さらにねえ、油が安物で、さらに古いのを使っているんだろうねえ。しかし、安くてねえ。量も多いし。だから、よく来たものですよ」
 店員が定食の皿を運んできた。グルメランチだ。
 老人はキャベツを見た。量が多く、細かく刻まれている。青い箇所も少しは見える。
 客がもう一組入って来て、注文する。それで、店員はまた奥へ行く。
「この衣、柔らかそうだねえ。昔はねえ。ブツブツのパン粉だったのか、硬い塊があってねえ。それが歯の間の変なところに挟まってねえ。歯茎から血が出たこともある」
「そうなんですか」
「悪口を言ってるわけじゃないですよ。まさかあなた、ここの人じゃないでしょうねえ」
「違います。この近くで働いている者です」
「そうですか、でも、その悪口の内容なのですが、いずれも懐かしく思えるのです。あのサービスランチと、やはりこのグルメランチは違う」
 老人はトンカツを箸で挟み、口の中でもぐもぐいわせている。
「柔らかい。上等だよ。でも違うんだ。あの筋のある硬い肉じゃない。やはり違う店になっていたんだなあ」
「そうなんですか」
「これじゃ、胸焼けしないよ」
「その方が、いいんじゃないのですか」
「いや、あの胸焼けが懐かしい」
 店員は、その会話が少しだけ耳に入ったようだ。
「親父の時代ですね。その感じ」店員が解説を加える。
「ああ、あなた、息子さんですか」
「いるんですよ。お客さんのような常連さんが。あの頃のほうがよかったって、あれは駄目でしょ。親父がケチな上、腕も悪い。だから値段だけは安かった。それだけですよ」
「今は、上等ですよ」と、老人。
「しかし、客は親父時代の方が多かった。不思議です」
「だがねえ、来たくて来ていたわけじゃない。他に行く店が思い付かないとき、何となく来ていたんだよ。適当に腹を膨らませよう程度でね」
「それが良かったんでしょうねえ」と、二代目の息子。
 老人はそういう会話が成立しただけでも満足だった。
 そして、食後、青年と別れ、通路を歩いた。以前なら、このタイミングで来るはずなのに、来ない。胸焼けだ。
「さらにこの辺りで眠気が来るはずなんだが」と老人は重ねて呟いた。
 
   了




2014年2月18日

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