小説 川崎サイト

 

自転車のカギ

川崎ゆきお



「君は自転車のカギをなくしたことはないかね」
「ありますよ」
「どんな感じで?」
「子供の頃、落としたりしました」
「あ、そう」
「誰だってあるでしょ」
「私の場合、昨日の事なんだ」
「カギをなくされたのですか。でも、今日はいつもの自転車で来られていますよね。見つかったのですか」
「それがね」
「はい」
「自転車を止めて、店に入ることがある。そのとき、あの輪っかのレバーをぐっと引くとガチッて音がする。この音を聞いた」
「輪になっているやつですね。後ろのタイヤに噛ますような」
「そうそう、シートの下にある。いつ頃からだろうねえ、そういうカギになったのは、昔は前だけだったなあ。棒のようなのを付き押すタイプだ。位置的には今の方が楽だがね」
「僕はカギは最初から無い自転車なので、ワイヤーで止めています。ビニールの筒に鎖が入っているタイプで、かなり太いですよ。それにカギが付いていています。カチッとは言いませんがね。聞こうと思えば聞こえるんでしょうが、手応えで分かります」
「あ、そう」
「それでカギはどうなりました」
「だから、しっかりとカギを掛けたのは確認した。音で分かるんだ。カチッと音を聞く。昨日もその音を聞いたことを覚えている。そして、スーパーで卵が特価日だったので、それを買った。これはねえ、千円以上買い物をしないと資格がないんだ」
「千円以上お買い上げのお客様に限り……というやつですね」
「そうそう。それで、余計なものを買うのは何なので、必ず使うものを買った。洗剤が切れかかっていてね。まだ早いのだが、先読みさ」
「スーパーに売ってるのですか」
「薬局で買った方が安いんだけど、特価日に限る」
「安いのなら、百均にありますよ」
「あれは、手が荒れる」
「あ、そうなんですか」
「それで、何の話だったかな」
「自転車のカギです」
「そうそう、それで、買い物を終え、自転車置き場へ行くとき、小便がしたくなってねえ。トイレは建物横にある。公衆便所じゃないが、客でなくても入れる。少し遠回りになるんだけど、そちらへ寄った。ここはね、倉庫のようなものの横なんだ。物置かもしれないねえ。トイレは綺麗だ。よく掃除が行き届いている。しかしねえ、レジ袋を持ったまま用を足すのは頂けない。しかし置く場所がない。狭い棚はあるけど、刺身やポテトチップス、それに洗剤や玉葱を買っていたのでね。レジ袋だから据わりが悪い。乗せても落っこちそうになる。レジ袋が落ちるのじゃなく、玉葱が転がり落ちそうだ。真下は谷だ。この谷に落ちると駄目だろう。仕方なく私は持ったまま掛からないように用を足した」
「そのとき自転車のカギは」
「カギのことなど考えてはおらん。しぶきが掛かるかどうかが問題だった。先のことより、今のことが大事だ」
「はい」
「それで、カギの話は」
「これからだ」
「はい」
「片手にレジ袋を持ち、片手でファスナーの上げ下げをするのは器用でないと出来ない。それにね、ファスナーを下ろす前にジャンパーのファスナーを下ろさないといけない。このジャンパー、丈が長くてねえ。実際には大きい目のを買ったから、そんなことになった。私の身の丈に合ったものを選んでおれば、ジャンパーのファスナーなど下ろす必要はなかったんだがね。しかし、小さめのジャンパーは窮屈なんだ。自転車に乗ったとき、大きいと袖も長い。だから、手袋替わりになる。袖の中に指まで入るからね」
「今、トイレですね。まだ」
「そうだ。レジ袋を持って、着ぶくれ状態で、ファスナーを都合二箇所上げ下げしないといけない。下ろすより上げる方が難しい。落とすと谷底だ」
「はいはい」
「それで、無事用を足し、自転車置き場まで歩き出したとき、ポケットをまさぐった。ただ歩いているだけじゃなく、先読みしてカギを取り出すのが私の流儀でね。自転車の前に来てから出すんじゃなくね」
「はい」
「ない」
「カギですね」
「そうだ。ない。カギが」
「何処で落としたかですか」
「いや、ものには順番がある。私は一番落としにくいであろうと思われる尻のポケットにカギを入れることにしている。そしてカギ以外は入れない。小銭と一緒に入れる前側のポケットに入れた場合、小銭を出すときカギも掴んでしまい、落とす危険度が高い。それによくズボンのポケットに私は手を入れる癖があってねえ。寒いときはなおさらだ。これはねえ、ジャンパーのポケットより温かいためなんだ。なぜなら太ももとポケットは接しているからねえ。太ももを炬燵代わりにするんだよ。これはねえ、ジャンパーのポケットでは出来ない芸当だ。遠いからねえ、脇腹あたりまでは。いや遠いと言うより、分厚いんだ。何枚も着込んでいるからねえ。布を何枚も重ねた湯たんぽのようなものさ」
「それで、後ろポケットを探したのですね」
「だから、後ろポケットにないから、カギがないことに気付いたんだ。何かの拍子で別のポケットに入れたのかもしれないと思いながら、私は歩きながら全てのポケットをチェックしたよ。やはり一番臭いのは小銭を入れているポケットだ。ここはよく手を突っ込むからねえ。つい癖で、ここに入れたのかもしれない」
「ありましたか」
「いつもなら、小銭の中から出て来る。カギを持つ部分が丸くなっていてねえ。これが小銭に似ている。この場合指では分からんので、取り出して目で確認する」
「ありましたか」
「手ですくい出したのだがね。二杯分ある。道理でポケットが重いはずだ。だから、ベルトが下がっていたんだ。右のポケットばかりに入れているからね。左は不思議と何も入っていない。小銭が多いのは、レジで小銭を出すタイミングが悪くてねえ。急がすんだよ、レジの人が。決して言わないけどね。早くせよとね。それで、ついつい札ばかり出す。だから、小銭が増える。さすがに重くなると、一杯分はビニール袋に入れて貯金しておる」
「一杯分とは?」
「手で取り出すときの一回分だ。これが多いとね。小銭を落とす」
「はい」
「えーと、カギだったねえ。全部のポケットをチェックした。これでもう落としたことになる。ポケットに入れるとき、空振りしたのかもしれない。それ以外、後ろのポケットに手を入れた覚えはない。買い物中も、レジでも、トイレでも。だから、落とした場所が思い付かない。一番臭いのはやはり自転車の側だろう。入れ損なったと見るべきだとは思わんかね」
「はいはい、思います」
「下手にスーパー内を探すような真似はしない。怪しいじゃないか、レジ籠も持たないで、下ばかり見ながら探すのはね。それにその可能性はないはずだ」
「で、自転車の前はどうでした」
「前まで来た。そして見た」
「はい」
「前ではなく、自転車だった」
「え」
「自転車に付いていたよ」
「抜き忘れたのですね」
「音と、抜くのは同時作業なんだ。そのはずが」
「良かったですね。見つかって」
「最初から、そこにあったんだ」
「ついうっかりですか」
「カギの掛かる音と抜くのは一連の動作のはずだったんだがなあ。何処で狂ったのかを考証した」
「分かりましたか」
「レジ袋だ」
「え」
「サドルのシートにひびが入っていてねえ。雨の降った日は、中のスポンジにまで染み込むんだ。その状態で乗ると尻に水が染みる。パンツまでな。それでレジ袋を被せてたんだ。そのレジ袋が大きくてねえ。カギはシートの下にあるだろ。だから、よく見えなかったんだ。音で確認までで、目では確認していなかったんだけど、無意識で見ていたんだろうねえ。しかしレジ袋で邪魔され、見えなかった。まあ、いつも見ないのだから、問題はないのだが、実際には見ていたんだろうねえ」
「それで、無事解決ですねえ」
「一つ何かが違うと、狂うねえ。それに自転車にカギを掛けるなんて、そんなに意識的じゃない。いつも流れに任せている」
「でも良かったですねえ」
「カギが見つからなかったとき、ドライバーを買いに行くことを考えたよ。近くに百均があるからね。特殊なネジだと難しい」
「そこまで先読みされていたのですね」
「ああ、そうだ」
 
   了





2014年2月21日

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