下宿屋の文学青年
川崎ゆきお
知人訪問好きマニアの木下は、文学青年の青木を訪ねた。文学青年も死語だが、それにふさわしく下宿屋という死語の世界に住んでいた。
「わざわざ探さないと、こんな下宿屋はもうないねえ」
「この物件は載っていなかったんだ。口コミだよ」
下宿屋なので朝夕が付く。さすがに昼はない。学生や勤め人なら外に出ているためだ。
青木も昼間はバイトに出ている。
「笑い事にしないでくれよ」
木下はその部屋を訪ねたのは初めてで、青木も公開するのは初めてだ。何事も始めては初々しく見える。初めづくしだ。
江戸職人が作ったというブランド物の文机がある。これを窓際に置いている。二階から外が見える。それを見ながら執筆する感じだ。
「低いねえこの窓」
「ああ、丁度机の高さだ。ベタ座りや寝転んでいるときはこの低い窓がいいんだ」
窓の右側の壁に半月の小さな窓もある。
「ここって、女郎屋さんだったんじゃない」
「らしいけど」
「出ない」
「お女郎幽霊かい」
「そう」
「それはない」
「そう」
「それより、消えた」
「え、何が」
「データが」
文机の上に七インチの小さなノートパソコンが置かれている。だから、窓明かりなど必要ではないのだ。
「パソコンに入れていたデーターかい」
「いや、タイプしているとき、消えた」
「ああ、よくあることだよ」
「それが気になってねえ」
「どんな風に消えたの」
「日本語をタイプしていて、変換前の文字なんだけど、それが消えた」
「よくあることだよ。打ち直せばいいんだ」
「未変換状態で、まだ確定していない状態で、ネットから何か自動送信されたらしくてね、その小窓が少し開いた。その窓にはシステムにアクセスしてもよろしいですかと出ている。OKを押したら、消えた。その窓がね。同時に変換前の文字も消えた」
「ああ、それもよくあることだよ」
「しかし、あの文章が思い出せないんだ。勢いで書いていたときでね、もの凄く良い言葉の群れを掴んだのだ。これは何処から来たのか分からない。流れだろうねえ。その前の文脈から連想された言葉や語呂が生成されるんだ。この流れでしか出てこない文章なんだなあ。一行にもならない短い文なんだが、打ち直そうと思っても出てこない。確定された文字列なら、消しても出て来るよね。それじゃない。宙に浮いたような処理中の文字列なんだ」
「メインメモリ内の一時記憶の中に入っているやつだろ」
「そうなの」
「ああ、だから、青木君のような文学者は自動変換じゃなく、ひと言ひと言変換し、確定させながら書いていく方がいいよ」
「それでは流れが消える」
「そうなん」
「しかし、あのフレーズ、ついに思い出せないじまいでね。それが残念でならない」
「別の言い回しをすればいいじゃないか」
「近いのは出るけど、やはりあれじゃない。あの文章にはならない。違う言葉じゃ駄目なんだ。同じ言葉でも前後が違うと駄目なんだ。あの妙な韻を踏んだような、あの文章でないとね。部品は限られているんだけど、どうしても思い出せない。その前の文章を受けての言い回しなんだなあ」
「まあ、よくあることだよ」
「そうなんだけど、その短編小説。もう続きを書く気がなくなった」
「さすが文学青年だね」
「笑いものにしないでね。冗談は控え目にね」
「はいはい」
「僕だって死後の世界なことは分かっているから」
「変なギャグは言わないようにするよ」
「頼むよ。僕も笑ってしまいそうになるから」
「自覚があるんだ」
「大自覚だよ」
「さすが文学者」
「だから、そういう揶揄は辞めてくれ」
「いや、野次だよ」
「まあ、こんな下宿屋をわざわざ探して住んでいるんだから、それだけでも確信犯だからね」
「雰囲気は大事だから」
「ありがとう」
「しかし、この七インチノートって、珍しいねえ」
「ああ、これは中古で見付けてきたんだ。まだ動くし、ネットも繋がるんだ」
青木は机からそのノートを持ち上げ、木下に渡す。
「小さいわりには重いねえ。それに特大のサンドイッチのように分厚い」
そのときコードが外れた。
「あ」
「何か外れたけど、何本か」
「ああ」
「一つはマウスでしょ、一つはランケーブルか、も一つ何かなあ。まさか電源……」
「あとで、繋ぐからいい」
青木は机にノートパソコンを戻した。
そしてコード類を繋ぎ直し、電源を入れるが、不正終了したためか、真っ暗の画面に英語が出た。
「ああ、またやってしまった」
「書きかけていたのがあったの?」
「ああ、保存していなかった」
「それはいけないなあ」
「いや、いいんだ。この儚さが」
「ほう」
「この儚さは文学と通じるんだ」
「笑いものにしないから、安心してよ」
「そう願うよ」
了
2014年3月6日